変じゃないブログ

なんかいろいろ。へんしゅうぎょう。ツイッターは@henjanaimon

パンツ(排泄物)売りの少女だった頃の話❹

Cさんは実際会うと、サラリーマンにしては明るめの茶髪をきれいに整え、今風なデザインのメガネをかけたサラリーマンだった。話し方も軽やかで、使う言葉も少しチャラいぐらいの男性だった。

「めっちゃ可愛いですね!」「久しぶり!今日も会えて嬉しい〜」「髪型変えたんだ!似合ってる」Cさんの口から出る言葉は、ごくごく普通の女慣れした男性が使う言葉で、今までろくに男性と会話したことがなかった私には少し気恥ずかしいほどだった。いつもニコニコしていて、別れ際には「今日もありがとね!」と、爽やかで優しい笑顔を見せてくれた。

Cさんに対し、私は2つの疑問を抱いていた。1つ目は「なんであんなに普通の、しかも若い男性が、女の下着なんて欲しがるんだろう…?」という疑問、2つ目は「あんなに爽やかな人なのに、なんでメールはこんなに暗いんだろう…?」という疑問だ。

Cさんから届くメールは、筋金入りのリストカッターだった私から見ても、異様に暗かった。「今日も憂鬱です」「仕事が辛いです」「僕の楽しみは、◯◯さんに会うことしかないんです」◯◯さんというのは、掲示板で使っていた私の偽名だった。なぜ、あんなに爽やかで、しかも「おじさん」というのは憚られる若い男性が、偽名しか知らないような関係の女に、ありったけの心情を吐露するのか。その気持ちがまったく理解できなかった。

Cさんはすこし年配に見積もっても、30代前半。見ようによっては20代に見えた。それくらいの男性は、オトナの女性とバーでデートしたり、毎日同僚と酒を酌み交わしているものではないのだろうか。ましてや、Cさんなんて人気者だろう。毎日トイレで弁当を食べている私なんかより、ずっとずっと友達もいるだろう。

その頃の私は、大人にはなんの悩みもないものだと思っていた。やりたい仕事をして、好きな人と恋愛をしてセックスして結婚して、子宝に恵まれたりなんかして。毎日リストカットを繰り返す自分が背負っているような、くだらない悩みなんて一切ないんだと信じ込んでいた。だから、Cさんが毎日とても辛そうなことが解せなかったし、放っておけなかった。

妖怪ウンコ喰いおじさんにもホスピタリティをもって接していたぐらいだ。私は毎日毎日Cさんを励ました。

「そんなこと言わないでください(;_;)」「またエクステをつけました🎵前に褒めてくださって嬉しかったので💕」「Cさんは優しい人ですよ💦」今思うと、10代の拙い気遣いだったと思うが、元気になってほしい一心で、私は必死にメールを書いた。たまに学校に行っても、授業中なんて関係ない。落ち込んでいたらなるべく早く返信をした。パンツの売買で繋がった男女の範疇を超えるくらい頻繁にやりとりをしたが、Cさんは律儀にパンツも買い続けてくれた。

ふと、「Cさんは本当はパンツなんか欲しくないんじゃないのか?」という疑問が私の脳裏をよぎった。もし、Cさんが排泄物や生理パンツを欲しがっていたなら「それはそれ、これはこれの性欲なんだな!OKOK!カマン!」と思うことができたが、Cさんはいつもノーマルな1日使用のパンツを求めてきた。もしかして、パンツは口実で、ただ私に会いたいだけなのかもしれない。

そんな考えが浮かんだが、さすがにCさんには言い出せなかった。小・中学校と男子に外見を貶され続けた私は、たくさんの男の人と売買を交わしても、まだ少し男の人が怖かった。

嫌なことをたくさん言われた。机を投げられたこともあった。しかも思春期を迎えると、男子は暴力性に加えとんでもない性欲も持つらしい。ほぼ女子高な高校に進学した私は、自分を馬鹿にしてきた男子とエロ漫画の登場人物しか「男」のサンプルを知らなかった。どうしても男性を信用しきれなかったのだ。

私はCさんからお金をもらう罪悪感を、丁寧にメールを返すことで拭おうとしていた。道端でスーツの男性とJKが長々会話しているとリスキーなのは、他の男性もCさんも変わらない。いつも会話は短めに切り上げた。その代わり、頻繁に長い長い長文メールをCさんに送った。Cさんから届く、少し元気になったようなメールが、私の唯一の免罪符だった。

それから月日が流れ、私は高校を卒業し予備校生になった。大阪の予備校に通っていたが、私が目指していたのは東京の美大だった。美大は、受ける大学により受験内容が全然違う。志望校でただ一人、東京の大学を志望していた私は、大阪の予備校では持て余されていた。

東京の予備校に通いたい。それに、もう自分はJKではない。「潮時なのかも」と思った。まだ東京に行く予定はないが父が単身赴任をしているため、私が言えばすぐ東京には移住できる。私は、Cさんを含めた常連みんなに、メールを出した。「そろそろ上京するので、もうやりとりできません」と。(ちなみに前回のブログ記事で、まるで私は初めて出来た彼氏の元にいくため上京したかのように書いたが、高校生の頃から東京の予備校に通いたかったし、Cさんとやり取りしていたのは彼氏ができる前だ)

みんな、「残念だけど応援してます」といったような返信をくれた。私の常連さんたちは、JKからパンツを買っていたけど、多分そのパンツでオナニーしていたけど、みんな良い人たちだったと思う。みんなからの返信で少しセンチメントな気持ちになっていた頃、Cさんからも返信が来た。その内容に私は驚いた。

 

「◯◯さん、今まで本当にありがとう。気づいてたと思うけど、僕には妻子がいます。妻子がいるのに、僕はもうすぐ会社を辞めて、医療業界で働く資格を取るために、学校に通い始める予定です。◯◯さん、最後にお願いがあります。思い出に学校で使うシャーペンを一本、送ってくれませんか?家には妻がいるので、この郵便局に送ってください」といった内容だった。

Cさんは若く見えたから、てっきり独身だと思っていたのに、妻どころか子供までいた。お父さんだったのだ。でも驚きより、Cさんが嫌っていた会社を辞めて、新しい夢に向かって歩もうとしていることへの喜びの方が強かった。シャーペンぐらいお安い御用だ。ブランド物の文房具なんて知らなかった私は、東急ハンズに赴き、一番おしゃれだと思ったシャーペンを買った。私も予備校でデッサン鉛筆に使っている、ステッドラー社の製図用シャーペンだ。「私も頑張るから、Cさんも頑張ってね」という想いを込めたチョイスだった。

後日「◯◯さんありがとう!嬉しいです、絶対大事に使います。シャーペンのお代金を振り込むから、口座番号を教えてください」と、Cさんからメールが届いた。私は今までのお礼や、Cさんにパンツを売り続けた罪悪感から、その申し出を断った。それで終わるはずだった。でも、Cさんは食い下がった。「それでは申し訳なさすぎます。絶対教えてください」いつもメールでは弱気なCさんにしては、語気の強いメールだった。私は渋々口座番号を教えた。

今思うとCさんは口座を見て初めて、私の本名を知ったのだ。そんなことすら、あの頃の私は気付かなかった。

 

私は来月、30歳になる。きっとあの頃のCさんと同じくらいの年齢だ。仕事は決してやりたい仕事だけできているわけじゃないし、好きな人にはふられまくってる。好きじゃない人とセックスして落ち込むことなんて日常茶飯事だし、結婚の予定もなければ、一生子供なんて産めないかもしれない。大人になっても、悩みは尽きないし、悩みのない大人なんてきっとただの一人もいない。今の私なら、Cさんの苦悩を分かってあげられるかもしれないと、よく思う。

結論から言うと、私の口座には70万近いお金が振り込まれていた。私が送ったシャーペンは1000円そこらの品物だ。すぐCさんに連絡し、こんなものは受け取れないと伝えた。Cさんは「東京はお金がかかるし、これが僕の精一杯のお礼です」と、頑なに自分の口座番号を教えてくれなかった。私には、あんなに強引に番号を聞いてきたくせに。結局志望校とは違う大学に通うことになった際、親が「単身赴任中の父と一緒に住まないなら、もう知らん」と初期費用などを出してくれなかったので、Cさんがくれたお金で私は家を借りた。家具を買った。それでもまだ余るほどの大金だった。おかげで大学に通えた私は、高校の頃の鬱屈とした日々とは正反対の、素晴らしい日々をおくれた。

きっとCさんは、あの時とても寂しくて、たまたま現れた包帯まみれの腕の私に同じものを感じてくれて、好きになってくれたんだと思う。あれから10年以上の時が流れて、私はダメな大人になった。27歳のときには心肺停止で緊急搬送され、ICUで治療を受けた。今は復活したけど、メンヘラはメンヘラだし、おまけにとてもヤリマンだ。

Cさんと会わなくなって、私はすぐ処女ではなくなった。いろんな男性とセックスをして、恋愛もした。本当に私を愛してくれた人もいた。だからこそ、あの時Cさんが私にくれたものは、ただのお金じゃなくて愛だったんだとよくわかる。私は、Cさんに何かを返せていたんだろうか。

仕事で医療系のパンフレットを見るたびに、私はCさんを思い出す。必死で普通の大人を装っていたけれど、ほんとは弱くて、とても優しかったCさん。夢は叶えたんだろうか。家族とはうまくやっているのだろうか。もう、年端もいかない女に、悩み相談なんてしなくても大丈夫になってるんだろうか。あのシャーペンを、今も持っているのだろうか。

色々なことを考えて、最後はいつも「やっぱりお茶ぐらいしておけばよかったな」と、少しだけ後悔する。