変じゃないブログ

なんかいろいろ。へんしゅうぎょう。ツイッターは@henjanaimon

腐れSNSこと、X(Twitter)をやめました

今日、チョコザップでエアロバイクを漕いでいる間に、Twitterのアカウントをすべて削除した。「これが嫌」という明確な理由があるわけではないが、もうずっと、漠然とXのことは嫌いだった。

 

今日は、朝に長男の幼稚園参観があった。「本当はママに駆け寄りたいけど、今までの経験上、どうやらそういった行為は幼稚園内では許されないと理解してる。でも、とても悲しいから唇ムニィってしながらさめざめ泣く長男」が、あまりに愛おしすぎた。これも、私がSNSアカウント全削除に動いた一因かもしれない。「長男、かわいい」を超えたー愛おしくて切なくて嬉しくて-とてつもなく大きく複雑な感情の隕石が、心に落ちたかのような衝撃。

 

それに比べてTwitter、おもんなさすぎるやろ〜〜〜!???

 

「ただ、なんとなく毎日。たまにごはん」みたいなbioの、生まれたときからずっとおもんなOLの精一杯のユーモアに富んだおもんなアカウント、もう見たないねん〜〜〜〜!!!!不条理ギャグに見せかけてその実、2018年当時の「ボケて」よりおもんない、成人男性のネタポストアカウント、もういらんねん〜〜〜〜〜!!!!!(どっちも、自分を「ちょっと人とは違う」と思い込んでる。まあまあ普通に怖いって)

少し前に見かけたしょうもないOLによる「高学歴な人が好きというより、ワードセンスある人が好き。だけど、ワードセンスある人って高学歴なんだよね」ってゲボゴミポストも、かなり私の精神に作用したかもしれない。

おい、Twitterにいるカス女ども。お前らがSNSに書いていいのは、マッチングアプリで出会った男の話と「結婚願望はないけど、経験として一度結婚を試してみてもいいのかも?と思った日曜日の昼下がり」って話と、休みの日に出かけた一人旅の話。あとは趣味のカメラ(大してうまくない)の話と、昔読んでた江國香織作品の話、あと吉本ばななのnoteの話だけなんだ。

お笑い通ってないやつがワードセンスを語るなボケ、殺すぞ。ダイアンの津田さんを見ろ。高校落ちてるのにラジオ20年間ずっとおもろいねん。
相方の西澤さんは男やのに短大行ってたけど、ラジオ20年間ずっとおもろいねん。

空気階段のもぐらさんはな、お母さんに「中学でたら自由にしろ(自由?)」と言われて、自分で高校の学費稼ぐために学校で禁止されてたけどバイトしててん。焼肉屋で。でも、そこに学校の先生が来ちゃってバイト強制辞職になったんぞ。そのあと、パチスロで大学費用稼いだけど、パチスロに規制入って稼がれへんくなって、大学辞めざるをえんかってんぞ。それでも、類稀なるギャグセンスとワードセンスで、キングオブコント優勝するわ、毎年の全国ツアーで3万人動員するわ、とんでもない売れっ子になってるっつーの!!!お前の何億倍おもろいか分かるだろ!!!お前はどうせ親の金で入った大学に親の金で通学してただけだろうがよ〜この腐れ◯◯コ!!!!!殺すぞ!!!!

というふうに、SNS(特にX)を見ていると、なんの得にもならない(損にもならないのがタチ悪い)ムカつきに苛まれることが本当〜〜〜に多い。この腐れマ◯◯がどれだけ愚かだろうと、私の人生には1ミリも関係がないのに、SNSはそういった無意味な不愉快をどんどん心に放り込んでくるのだ。

中学生の頃からタグ打ち自作サイトに日記を書き、高校生の頃はmixiで毎日の生活を記録した。ネットを介して出来た友達もたくさんいた。でも、いつの頃からか、あれだけ心の糧でいてくれたインターネットは、私の有意義な時間を蝕むだけの存在になっていたようだ。
それに、聞きたくもない声を勝手に聞いて「くだらねー」ってイライラしているようじゃ「ノゾミのなくならない世界」(筋肉少女帯)をヘビロテしていた孤独な高校生の頃と、大して変わらないもんね。あっさりネットの痰壺から手を引けたことで「私は幸せな大人になったんだ」と実感できた。これこそSNS引退メリットその一なのではないだろうか?

というわけで、しょうもない奴らがインターネットという汚い川に流されてきて、私の人生に介在することを、以後一切禁止します!!そのためのSNSとの決別を、ここに表明する。SNSを1時間見るくらいなら、「相席食堂」のチャーリー浜回をもう一回見返した方が全然有意義だ。

ワテはメシ食って屁こいて、スマホでは「平成敗残兵すみれちゃん」とか読むだけにして、夜は可愛い可愛い息子たち抱きしめながら寝ますさかいに!!!おもんな男女ども、せいぜいポスト(笑)おきばりやす!!

眼瞼下垂手術日記②【手術後1日目〜手術後15日目】

出オチ感あふれる写真でこんにちわ。最近は「借金でもあるのか?」というくらい働き詰めで、すっかり更新が遅くなってしまった眼瞼下垂手術日記②です。上の写真を見ると一目瞭然で、現在は手術後36日目ですがかなり目の開きが良くなり、月に2〜3度起きていた原因不明の眩暈がまったく起こらなくなりました。手術直後〜半月くらいまでを写真で振り返っていきます。

 

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手術後1日目

手術直後はなかった内出血が出始めました。

 

手術2日目

今見返すと腫れてますね。次男と公園で遊んでいるときに撮った写真なので、太陽光撮影です。

 

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手術後3日目

「あれ?なんかよく見ると、この人目が変だな」くらいの腫れと内出血で、よかったっちゃあよかったんですが、この日だけは「もっとヤバい感じになってればよかったのに」とも思っていました。

 

なぜかというと、この日はギャラを勝手に下げられた取引先との顔合わせがあったからです。手術前は「あいつらの前にヤバい顔で登場してドン引きさせてやる」と目論んでましたが、人をビビらせることができるほどの痛々しさは全然ありませんでした。

 

ちなみにこの日の顔合わせで「Aの作業はできないけど、Bの作業だけならご協力できます」と伝えていたはずのAの作業も全て私に丸投げするような説明を、仕事を依頼してきたババアから受け、ただただ驚愕。ギャラを勝手に引き下げてきた制作会社も、ババアも、なにもかも信用できなくなりました。帰りに寄ったグランフロントで、半泣きになりながら無印のクリアファイルを買ったのを覚えています(この争いはババアVSババアの悲しい戦いです)

 

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手術後4日目

前日の一件でメンタルをズッタズタにやられ、4日目にして写真を撮り忘れる始末。代わりにホカホカのチャーハンと夫の写真を貼っておきます。

 

ちなみに、クソ会社とババアとの一件に関しては、寝る直前まで悩み続け「全員殺して私も死のうかな」とまで考えましたが、私には守るものがあるので、ブチギレLINEと共にすべての仕事を断る手段を選びました。私が無敵の人だったら全員殺してました。

 

朝の7時にババアに1000文字くらいの長文LINEを送りつけた爽快感たるや…正直キマりかけました。ババアからはすぐ返事が返ってきて、全面謝罪を勝ち取り、次の日に電話で相談することになりました。

 

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手術後5日目

ババアとの諍いにほぼ勝つことができたので、心なしか目もキラキラしてますね。結局「今後の相談の電話」は2時間弱に及びました。長えよ!ババアはこの仕事を10年近く続けていて(今年は諸事情で時間を割けないため、私に投げるつもりだった)制作会社の理不尽な要求にも慣れてしまったゆえに、私に迷惑をかけたかも…とのことでした。知らねえよ!!!

 

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手術後6〜8日目

誰も読みたくないババアVSババアの戦いで尺を割いてしまったので、数日分をまとめてみました。手術後6日目くらいから、あまり変化が見られなくなりました。糸がついてても違和感などは抱きませんでしたが、抜糸後はさらに瞼の開閉が楽になった気がしました。この時点で、内出血はまだまだ残っていました。

 

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手術後9・10〜13日目

11日目が抜けてます。この辺から記録が雑になり始めました。13日の昼にお酒を飲んだのですが、なぜか14日の朝より、飲酒前の13日朝のほうが目が腫れています。

 

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AIに目の写真を送りつけたら「アーモンドアイ」と言われ、嬉しかったです。

 

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手術前〜手術後15日目

一気にまとめてみましたが、キモいです。夫に見せたら「妖怪百目」と言われました。こうして見ると、やはり抜糸(術後7日目)後から腫れが一段とおさまった気がしますね。

手術直後にかなりメンタルがやられる出来事が起こったのに、眼瞼下垂後は頭痛やめまいもなく、仕事が最悪でも鏡を見ればパッチリ二重の自分がそこにいる事実に、かなり心が救われていたと感じています。

 

余談によって長くなってしまったので、続きは③にまとめて「眼瞼下垂手術日記」を終える予定です。次回は不要な余談は少なく(ちょっとは書く気なのか…?)、今後手術を考えている方にとって参考になるような情報をまとめられればいいな。

 

※万が一、このブログを見てしまった私とバトルしたババアへ。

「ババア」と呼んでいますが、私も「ババア」を自称しているので勘弁してください。

あなたを「悪い人ではない」と感じていたから、「人材がいない」と困っていたから仕事を請けたのに、ギャラも業務内容も、なにもかも前提と違う条件を提示された私の気持ちを考えてみてください。かわいそうすぎますよね。ということで、ブログにまとめられたことは水に流してください。では。

眼瞼下垂手術日記①【手術前〜手術当日】

2025年1月31日。

「今年ももう12分の1終わりましたね」なんてしょうもない世間話をついしてしまう1月の末日、眼瞼下垂の手術を受けてきました。

 

◾︎手術前

私は2012年頃と2022年に2回、二重瞼の埋没手術を受けています。1回目の埋没は2年余りで、2回目の埋没も、左目は同じく2年で一重に戻りました。

 

2回目の手術前、カウンセリングで数件の病院を回りましたが、とある美容外科クリニックにて「瞼がくぼんでいて、埋没はできません」と説明されました。その病院はカウンセリングにお医者さんが出てこず、おまけに「瞼に自分の脂肪の生成を促す注射(なにそれ?)を打って、脂肪が貯まったら埋没できます。費用は全部で60万くらいです」と説明され、悪徳クリニックだ!と逃げ帰りました。恵◯会クリニックです(「とある」の意味は?)

 

そこではじめて「…やっぱ瞼窪んでるよな?」と己を客観視した私。薄々は自分でも気づいていたけど、人から指摘されるほどなんだと思い知りました。結局、他のクリニックで埋没手術を受けましたが、直ぐ取れたのは先述のとおり。そして2024年の夏、パーソナルカラー・顔タイプ・骨格診断を受けた際に診断士さんにも「窪み目」と言われ(そういえば言われたことあるな…)と、2年前の記憶が蘇ったのでした。ちなみにパーソナルカラーは1st夏、2nd冬。顔タイプはクールカジュアル、骨格タイプはナチュラルと、かなり着るものや使う化粧品を選ぶタイプでした(ノイズ情報)。

 

1度目に窪み目を指摘された2022年、目の窪みの原因について検索すると「眼瞼下垂」という病気がヒットし、いろんな症例のなかに自分の目にすごく似た症例写真があったことを覚えていた私は、再度検索し(やっぱ自分と似てる)と眼科の受診を決めました。

 

◾︎初受診で即診断

私は5ちゃんねるに圧倒的信頼を寄せているので、5ちゃんの「眼瞼下垂スレ」で「大阪で有名」と紹介されていた病院の予約を取りました。

受診までにセルフチェックなども行い、眉と額を押さえつけると目が全然開かないことも確認しましたが「まあ多分ちがうだろ」と根拠もなくノー眼瞼下垂を信じていました。

 

セルフチェックの方法:https://manabuta.jp/blepharoptosis/selfcheckptosis/

 

いざ病院に行くと、独特な姿勢をとらされ、自分で押さえるのとは比べものにならないくらい眉と額を押さえつけられ、いっさい目が開かず「こんなんで開眼できる人、おるんか!?」と思うほどでしたが、先生から「普通の人は7mmは目が開くのに、私さんは1mmも開いてません」と悲しい宣告を受けました。眼瞼下垂確定の瞬間でした。その後、家に帰って見よう見まねで夫に同じチェックを試したところ、普通に開眼し、実家の両親も「なんでこれで目が開かへんくなるのよ?」と言いながら普通に開眼してました。私はめちゃくちゃ眼瞼下垂でした。

 

その後、他の病院にもカウンセリングに行きましたが「静脈麻酔をお勧めしてくる(眼瞼下垂の手術は、術中に目を開けて繊細な微調整が必要なはずなのに、眠らせて手術する医者はヤブだとTwitterで見た)」「皮膚の切除を勧める(安易な皮膚切除は絶対ダメだと以下略)」と疑わしきポイントが沢山あったので、初めに伺った病院に手術の予定を入れました。

 

◾︎手術について

そして1/31。いよいよ手術の日です。当日はノーメイクで病院に向かいました。まず、手術と術後に処方する薬について看護師さんから説明を受け

「緊張を和らげる抗うつ剤」を飲まされます(合法です)。

 

その後は洗顔し、手術台の上で術前の目を撮影してもらいます。撮影が終わると先生がやってきて、二重幅のデザインを決め、瞼にマーキングを施されます。眼瞼下垂の手術は美容目的ではないのでデザインには口出しできませんが、鏡に写る目を見て(めっちゃええ二重幅やん。早くこれになりたい)と心が躍りました。

 

そしていよいよ麻酔。瞼に3〜4回、瞼裏に1回注射を打たれます。口コミを見てると「地獄の痛み&苦しみ」「二度と経験したくない」などの意見が散見されたのでビビりまくっていましたが、正直大したことなかったです。私は口内環境が最悪で、十数回に及ぶ抜歯のために歯茎にいきなり麻酔注射を打たれたり(表面麻酔なし)しているせいでしょうか。ちなみに、過去に二重の切開手術をしている妹ちゃんに「麻酔痛かった?」と手術前に聞いたところ「お姉ちゃん、二人も子供産んでるやん。陣痛に比べたら余裕やで」とよくわからん励ましをうけました。実際は陣痛の500分の1くらいの痛みでした。

 

そこからは、ひっぱられている感覚や縫われている感覚はなんとなーくあるものの、痛みもなくただ寝転んでいるだけです。「布らしきものでグイグイ拭かれてるけど、いま瞼切れてるんじゃないの…?」などの恐怖心はややありましたが、手術台のライトはかなり明るく、ひっぱられて目が開いてもキラキラと真っ白な光しか見えないので、若干の天国みがあるだけでした。

術中に何度も「目を開けて」と言われ、開眼時の状態を見て微調整をしてくださってるのが伝わってきて(静脈麻酔を勧めてくるクリニックを避けてよかった)と改めて思いました。ただ、手術の仕上げに瞼をグイグイもみしだかれたのは怖かったです。あれ、なに!?(正当な理由があるに違いないんだけども)

 

「終わりましたよ」の声と共に手術は終了。時計を見ると、40分たっていないくらいで驚きました。ゆっくり起き上がり、術後の目を撮影。髪の毛などを軽く整えて終わりです。

 

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こちらが術前・術後の目。ほとんど出血もなく、見た目のグロさも想像よりかなり少なめで安心しました。

 

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手術に備えて買ったもの。実際に役にたつかは怪しいところですが、活用していきたいと思います。

今後もダウンタイムの経過をブログに書いていきます。

そういうことにしとくよ日記-7月(1)ルックバック、ぎっくり腰編

映画前に作った世界の山ちゃん再現手羽

7/11(金)

映画「ルックバック」を観に行った。ルックバックは、原作をはじめてネットで読んだときに回し蹴りをモロにくらったかのような衝撃を受け、「なんだこの薄さ…こんな単行本見たことねーぞ…」と文句を言いつつ、発売日当日にすぐ単行本を買った。

 

それくらい好きな漫画なので、映像化はあえて観ないことに決めていた。

「どう考えても、原作を上回る作品が世に出るはずがない。だから観ない」。そう決めていたのに、SNSでのあまりの評判の良さに負け、夫に息子たち二人を預け、のこのこ一人でレイトショーを観に行った。私の意思は綿素材よりもやわらかい。

 

映画終わり、飲みに出かけた味園にて

結果として、映画ルックバックは最高だった。

漫画と同じだけの優れた創作性を液状にして漫画に流し込んだら、コマとコマのあいだが面白さで埋まって、さらに密度が濃くなったような名作だった。

 

エンタメとして優れているのは大前提だが、大昔に美大合格を目指して予備校で毎日油絵を描いていた私としては、個人的に刺さる描写も多かった。私は18歳の頃、美大合格を目指し関西から上京して浪人ライフを送ったものの、箸にも棒にもかからずに、尻尾をまいて美術の世界から逃げた人間だった。

 

美術予備校は楽しい世界だった。

高校在学中も美術予備校に通っていたものの、周りの学生は全員関西の大学を志願していたので、私一人だけが毎日違う作業をしていた。学校でも友達0人なのに、予備校では友達がいないどころか一人だけ違うことをしているので、ことさら周囲から浮いているような気がしていた。

 

だからこそ、東京での予備校生活が楽しかった。なにより「美大志願者」の免罪符があると、どんなことも許される気がして心地よかった。海を真っ赤に塗ってもいいし、作業中に音楽を聴いたり、本を読んでも「もしかしたら花咲くかもしれない美大生の卵」として、なにもかも許される気がしていた。

 

実際にはそんなこと全然ないし、実直真面目にやっている人が合格するし、私は変人に憧れているどうしようもない小心者でしかなかった。そんな人間が1浪を経て挑んだ受験では、現役時代にもぎとれた補欠合格すらひっかからなかった。おまけに、初めて出来た大学生の彼氏(mixiで知り合った)は付き合い始めて2ヶ月目で同じバイト先のJKエミリちゃんに乗り換え、未練がある私をセフレ扱いし、なにからなにまで最悪だった。18歳の私よ、お願いだから受験に専念してくれ。

味園がなくなる事実、最近になってまたじわじわつらみを増している

私にはなんの才能もなかった。絵の才能がない上に、努力の才能もなかった。

私の祖父は北九州のガテンな家庭に生まれたが、勉強が好きすぎて両親に勉強専用の小部屋を設けられたほどだった。地元で勉強しまくり旧帝大に入り、大学でも勉強を続け、最終的に卒業校で名誉教授になった。祖父が亡くなった際は、新聞のおくやみ欄に名前が載った。そんな祖父はカメラが好きで、写真を撮るのがうまかった。

 

同じ祖父をもつ私の妹は、ラッキーマンの努力マンより努力の人だった。

彼女は中学受験の際、勉強のためにイスに座りすぎて、おしりに謎の腫瘍がたくさんできていた。そこまでして入った有名私立中学の中でも怠けず、努力に努力を重ねて特進クラスに進学した。おまけに、本人はまったく美術に興味がなかったようだが、美術の授業で妹が描いた風景画は、パースが完璧で色使いもなんともいえない独特の魅力があった。 そんな人たちを傍目で見て育った私は、実はなにもかも気づいていた。自分には、なにもない。

 

「祖父や妹みたいな人が美術に目覚めていたら、ルックバックの藤野や京本みたいな人間になっていたのかもな」。映画を観ながら、ぼんやり思った。

 

31歳で結婚した相手は皮肉にも優れたクリエイターで、今の私の周りには「ものをつくる」ことを生業にしている人が結構いる。先ほど書いた努力家の祖父を同じく祖父とする、歳の離れた私の従兄弟は、私が志望していた美大に昨年合格した。人生とは、糸のように細いたくさんで色とりどりの皮肉が、複雑に絡んでいるようだと昨今感じる。

 

18歳のあの頃、美術から逃げずにいたら私はどうなっていたんだろう。きっと、キャバクラ嬢やバニーガールにはならなかっただろうな。そっちはいい人生だったのかな。いや、でも夫と出会えなかったのなら、それはなにもかも諦めてFラン大学に進むより、その数年後にアル中になるより、多臓器不全で心肺停止になるよりも本当に最悪だ。

藤野や京本みたいな人間じゃなくても、平凡というには能が足りない人間でも、幸せになることはできる。多色の皮肉も、遠目に見たら綺麗な刺繍に見えるかも。その事実も含めて、34歳の今、この映画を観ることができて良かったと思う。

 

植えて1週間ほどで、植える前(手に持ってるやつ)の2倍くらい伸びたネギ

7/15(月・祝)

日曜に実家に宿泊し、月曜に家に帰ると夫がギックリ腰になっていた。日曜は夫が夜遅くまで仕事だったので、ゆっくり寝てもらうために実家泊にしたのに、夜中腰が痛すぎて眠れなかったらしい。18日現在も完治はしていないので、早く良くなりますように。夫は月に2回くらい体調が悪くなります。

 

7/4(木)

息子たち二人は誕生日が同じだ。出産予定日は1ヶ月ほど離れていたのに、次男はいきなりの胎盤剥離で早産になってしまい、長男の2歳の誕生日当日に産まれた。胎盤早期剥離は1/100〜200の確率で起き、同じ誕生日は1/365の確率。君たちには是非、宝くじを当てて欲しいものです。

はしゃぐ親子



今年の誕生日当日は二人とも体調を崩していたので、1ヶ月後の今日、改めて誕生日らしい日を過ごすことにした。天保山に行き、サンタマリア号に乗った。「それのどこが誕生日らしい日なのだ」と問われると、正直「うるせー!!」と逆ギレするしかないが、とにかく今年は船で二人の誕生を改めて祝った。

 

来年こそは誕生日当日に祝ってあげたいですね(大きなフラグぶったてるのやめろ)。

ごはんで毎日をふりかえる-2024年6月

パッタイ(昼食)

2024年6月4日(火)

この日は息子たちの誕生日。Twitterでは飽きるほど書いているが、我が家の2歳違いブラザーズは誕生日が同じだ。別に狙って生殖したわけでもなく(生殖とかキモいこと言うな)、同じくTwitterでは何度も書いているが、次男の妊娠中に私の子宮から突然胎盤が剥がれ落ちたためである。これは「胎盤早期剥離」という疾患で、妊娠経過になんら異常のない妊婦にも突然襲いかかる激ヤバな病気のせいだ。私も例に漏れず、超健康妊婦だったのに、出産予定日6週間前の2023年6月4日、突然の大出血を起こして緊急搬送された。

 

かかりつけ医院で診察中に見た、女医さんの「うわ〜…」という神妙な顔がいまだに忘れられない。私は2017年に心肺停止を起こして2ヶ月の長期入院を経験しているため、いろんなお医者さんと対峙してきたが、お医者さんがあの顔をするときはガチでやばいときと経験が知っているので、診察されながら「あかんやん」と思った。多くの人が知っているように人生は運ゲーで、平凡な日常から突如地獄に叩き落とされることが往々にして、ある。

 

次男の妊娠発覚からまもなく、私の体に子宮頸がん一歩手前の高度異形成が見つかったことも併せて、自分の人生のままならなさを呪った。トラブル続きの我が身を呪い、お腹にいる次男への申し訳なさから救急車の中で少し泣いたら、付き添いの女医さんが手を握ってくれた。どんなときでも、人の優しさは心に沁みると実感した。

 

(以下、なんか色々書いてたのに下書きをミスって消えていた。悲しいので雑にまとめます)

ただ、競馬と人生は逆転がつきものなので、母体死亡率5~10%、児死亡率30~50%の最悪な状態から私と次男は無事生還した。緊急搬送先の名医たちのおかげで、次男はその後の度重なる検査を全てパスし、この日、健康体で1歳の誕生日を迎えた。がん一歩手前の高度異形成は、去年の冬、手術予定日10日前の検査で陰性を叩き出し、精密検査も問題なし。今日までずっと陰性の結果が続いている。そんなことあるんや。

 

長男3歳、次男1歳の誕生日。次男は手足口病にかかり、長男は発熱した。人生は運ゲーだからこんなふうに小さな悲劇も多々あるけれど、発熱と軽い湿疹で済んだなら幸運に近しい。心臓が止まっても、急に胎盤が剥がれても死なない、生き死に界ではディープインパクト級の差し馬が母親だから、サラブレットの君たちの人生は、きっと健康で実り多きものになるよ。来年の誕生日は2年越しの盛大なお祝いをしたい。

※夫も子供の頃、男児の1%がかかる「精巣停留」という病気になり、90%の確率で1歳までに自然に治るはずがその他10%を引き当て、小学生になっても精巣がちんたま袋に降りてこず、転院に次ぐ転院を経て、全身麻酔手術を受けている。そのため息子たちはガチのサラブレットです。

 

柴漬けタルタルのせ白身魚フライ(夕飯)

2024年6月11日(火)

息子たちの症状も落ち着き、ちょっとだけ風邪をもらっていた我々夫婦も回復する。回復して早々、揚げ物を喰らう30代夫婦。元気です。

 

前日に作ったぶりの照り焼き(夕飯)

2024年6月12日(水)

ずっと家に篭りきりだった息子たちを連れて、門真に行く。これまでの人生でほとんど訪れたことのなかった門真だが、実家の両親に車を出してもらって、去年できたららぽーとには息子たちを連れて2度来訪したことがある。夫とは行ったことがなかったので、この日は電車で家族4人で出かけた。長男の新しいスニーカーを買う。4ヶ月前にも買ったのに、もうサイズアウトしてしまった。子供の成長スピードの早さたるや、エグし。

 

電車内がガラガラだったので長男に窓の外を見せてあげた。Twitterに書いたら叩かれそうだけど、はてなでは書く

一番のお目当てだった海洋堂ホビーランドは休館日で、泣く泣く門真をあとにした。悲しかったむねをツイートすると、公式アカウントから陽気なリプをいただけて嬉しかった。公式アカウントがのびのびしている施設はいい施設なはずなので(SHARPさんを除く)、またリベンジしたい。

たくさん炊いて次の日の朝おにぎりにした、かやくごはん

2024年6月16日(日)

この日は夫が夜仕事で不在のため、マッマが実家から遊びに来てくれた。私は隣駅に住んでいる両親にめちゃくちゃ甘えた子育てをしているので、息子たちも両親に懐きまくっている。我が家のごはんは常に大量だが、親が来る日はふだんに輪をかけて多量のごはんを作る。この日はかやくごはん、ナスと鶏肉の揚げ浸し、春雨サラダ、回鍋肉(あとは忘れた)を作った。母はかやくごはんを2.5杯食べていた。

 

私のTwitterより

※次の日も夫が夜不在だったので両親に来てもらいました。甘えきってます。

 

両親は毎度私の料理を絶賛してくれる。これといった特技のない子供だったので、幼少期より今のほうが褒められている。くすぐったい気持ちになりつつも「いくつになっても親に褒められるというのはいいもんだな」と嬉ししく思う。私も息子たちをメタメタに褒め散らかしていきたい。

 

あと、私は親とか関係なく、この世の全ての人間から褒められたいな〜と頻繁に思っています。わかりますか?これを読んでいるあなたに語りかけているのです。褒め、待ってます。

精神病等に入院していたときの話❸

私はいまだに1日1箱タバコを吸う。完全に、惰性でスパスパ軽やかに、8ミリのメンソールタバコを愛飲している。私が通っていた大学というのは、「名前さえ書けば入学できる」と揶揄されるような学力しか誇らない女子大だったが、いわゆる「お嬢様大学」で、学び舎にはたくさんの育ちが良さそうなお嬢さんがいた。そのお嬢さんたちの一人に、喫煙について言われたことがある。「タバコを吸う人は、何かに依存していないといけない、心の弱い人なんだよ」と。

そのお嬢さんのご指摘通り、19歳の私は何かに依存しないと自我が保てないような人間だった。しかもその悪癖は改善されることなく、私は依存する対象を次々増やし、7年後には精神病棟にブチこまれる大人になっていた。

 

その女の子とは、本当にいつのまにか、きっかけも思い出せないぐらい自然に言葉を交わすようになっていた。半分が痴呆症の高齢者。あとは、一般的に「社会の落伍者」と言われてしまうような人たちだろう。なんらかの疾患を抱えた中年がほとんどの病院の中で、私と彼女は珍しい「20代の女性患者」だった。受付に申告しないと借りられないライターを貸してあげただとか、珍しい洋モクを愛飲していた彼女に声をかけただとか、些細なきっかけで、性別と年齢を共有していた私と彼女は世間話を交わす仲になった。

といっても、初めてこの病院に入院する私と違い、彼女には何人か、病院内に「顔見知り」がいるようだった。この病院では朝昼夕の食事を、患者全員が揃って大きなロビーでとることがしきたりになっていて、学生の頃から友人がいなかった私は、学生時代と同じくひとり隅っこで食事をとっていた。彼女と知り合ってからは、彼女が声をかけてくれて何度か対面に座り食事をとったが、前述通り私は満足に食事ができなかったので、いつも早々に席を後にした。彼女と彼女の顔見知りの人たちは、そんな私を「無理しなくていいんだよ」といったような、やさしい顔で見つめてくれたのが嬉しかった。「こんな人たちしかいない所に入れられるなんて」病院内の非日常感に飲まれ、初めはそう感じた私だったが、彼女たちの存在に少し救われたような思いがした。『まともな人もいるんだ、まともな人でも、こういうところに入れられるんだ。』今にして思えば、私は嫌らしい選民意識を持っていたことがよくわかる。たくさんいる入院患者の中で、食事すら取れないのは私だけだったのに、私はまだ「自分は違う」と思い込んでいた。この自意識の過剰さが、私を陥れた要因の一つだったのに、私は何も理解しようとしていなかった。

 

ある日、病院内の喫煙所で彼女と鉢合わせた。この頃には、私たちはかなりの数の言葉を交わしていたので、挨拶も自然なものになっていた。そして彼女から、あと数週間で退院する旨の知らせを受けた。「自分は他の患者とは違う」と思い込んでいた私は、なんの疑いもなく彼女に「よかったね〜!」と声をかけた。彼女の顔は、みるみる曇り、小さく動く口から「よくないかな」と、呟くような言葉が聞こえた。いつも明るく、たまに親への憎しみを述べる時以外は陽気に見える彼女が、初めて見せたとても暗い顔だった。

「ま、出てもまたすぐ戻ってくるし!いつもそうだから。外で暮らすとかありえないから!」そう明るく言う彼女は、言葉以外はとても病んでいるようには見えなかった。

 

私は、この病院の中で食事が取れなかったわけではない。アルコールを断った後、胃のこむら返りは徐々に収まり、食べようと思えば普通に食事をすることができた。でも、そうしなかった。もちろん食べたくない日もあったが、食べられないふりをして、食事を回避した日も多くあった。職員の手前、数口食事をとった日はすぐにトイレに向かい、自ら口に指を入れ胃の中のものをすべて嘔吐した。

死にたかった。私はあの時、どうしても死にたかった。病院に入れられたのは予測外だったが、本当は食事を回避しアルコールだけを飲み続け、死ぬつもりだった。こんな状態になっても足繁く見舞いに来てくれる両親を悲しませないため、首吊りや飛び降りなど、「自殺」以外の判決が下されない方法は避けたかった。だから、私は食事を拒み続けた。職員に隠れ、両親に隠れ、私は食べたものを吐き続けていた。

私の計画は完璧だった。だからこそ、今足元もおぼつかなくなり、体がどんどん弱ってきている。このままいくと、私は死ねる。そう、確信していた。

 

これも、私の嫌な選民意識の一つだったと思う。私は、選択して今の自分を作った。ヨボヨボで生気がなくて、まともに歩けず、食事も取れない自分を。そういう自意識があった。だからこそ、彼女の屈託のない笑顔が胸に響いた。この子はきっと、何もかもを諦めている。生きることも、死ぬことも。彼女だけではない。他の人たちも何にも抗うことなく、静かに「この病院にいる自分」を受け入れているのだ。「死ぬこと」とはいえ、何かに向かって執念を燃やす私と、今あることの全てを静かに受け入れている彼らとでは、大きな隔たりがあった。入院当初から、私が感じていた違和感の正体はそれだった。今まで何度精神が病んだか分からない。やっと今、「死」へとうまく歩けていけてる実感がある。だからこそ、同じ「精神病」とされているのに、私のように昂りも荒ぶりもしない彼らに、違和感は初めからあった。その日、彼女の明るい顔に、私は答えを見出してしまった。

 

それから数日後、彼女の退院と時を同じくして、私も病院を出ることになった。一時帰宅先の自宅で心臓発作を起こし、意識不明となった私は、緊急搬送で別病院のICUに運ばれたからだった。私はその病院のICUで10日間の昏睡のすえ意識を取り戻し、そちらの病院で治療を受けることになった。透析やリハビリなど、施設の整った病院でしか受けられない治療が私の身体には必要だった。手厚い看護を受け、心臓発作から2ヶ月後、私は久々に病院外の世界に戻ることになったのだった。

 

その後、私は自殺を企てることなく、社会復帰を果たした。普通の顔をして暮らし、普通の顔をして面接を受け、普通の顔をして合格通知を受け取り、普通の顔をして会社に通勤した。恐らく私の姿を見て、精神病棟への入院歴に気付く人など誰もいなかったと思う。幸いなことに、私は仕事ができない方ではなかったため、ある程度の評価を受けることもできた。私は、完全に「普通の人」に成ることができてしまった。私には、しょうもない虚栄心も、くだらないプライドも、それを踏みつけられたくない競争心も、すべての煩悩があった。だからこそ、普通のくだらない人間に成ることが叶ったのだ。

 

カッコーの巣の上で」に出てきたマクマーフィーは、血気が盛んで野蛮で無礼で、とんでもない荒くれ者だった。だからこそ、病院の中で仲間を焚きつけることができたし、厄介者と疎まれ、最後には人間らしさの全てを切除されてしまった。

完全に煩悩の世界の住人となった今、私はたまに彼女のことを思い出す。とても「ここ」以外では生きられないと、軽く笑っていた彼女。囲碁か将棋をして日が落ちるのを待つ患者たち。誰も、見舞いに姿を見せない彼らのことを。

カトリックにおいて、人は七つの大罪を抱えて生きているとされている。傲慢さがなければ自分に自信は持てないし、嫉妬の気持ちがなければ能力を伸ばすこともできない。憤怒しないことには悲しみに心が押し潰されてしまうし、少しの怠惰がないと、頑張りは長く続かない。強欲さがなければ欲しいものへの活力も失ってしまう。いうならば、現代の食事はすべてが暴食だ。私には、それが罪だとは到底思えない。

すべての罪を前頭葉ごと、マクマーフィーのように奪い取られなかった私は恥ずべき存在なのかもしれない。それでも私は、自分に優しく笑いかけてくれた彼女たちが、すべての罪を課せられ汚い下界に落とされてくれれば、と思う。一緒に罪を背負って、自分の行く道を決めればいい。誰も見舞いに来てくれない病院に、マクマーフィーが来てくれるのはフィクションの話だ。彼女たちの意思を伺える術はもうないが、私はまた次に死ぬ時まで、恥と罪にまみれた自分から、目を逸らすのはやめにしようと決めている。

精神病棟に入院していたときの話❷

この記事を読んでくださっている方の中で、「カッコーの巣の上で」という古いアメリカ映画をご存知の方はどれくらいいるのだろうか。

刑務所収容を逃れるため、詐病を使い精神病院送りとなった荒くれ者の主人公マクマーフィーが、精神病院内でも荒くれまくり、古い体勢や独裁的な看護師長に反抗し続け、そんなマクマーフィーの人間らしさに、周りの入院患者たちも徐々に人間らしさを取り戻していくハートフルなヒューマンドラマだが、この映画を視聴した中学生当時、私はその救いのないラストに絶望した。

ある日、マクマーフィーは女友達を精神病院内に招き入れ、いつものごとく荒くれまくり、どんちゃん騒ぎを始める。マクマーフィーには可愛がっているビリーという入院患者がいたのだが、どうやら、ビリーが女友達の一人を好きになってしまったらしい。マクマーフィーは女友達にビリーの筆下ろしを頼み、めでたくビリーはDT卒業となるが、その事が看護師長に知れ、看護師長は激怒。ビリーの母親にその夜の出来事を報告してしまい、マザコン(母親は毒親っぽかった記憶がある)のビリーは自害してしまう。マクマーフィーはビリーの死に怒り狂い、師長を殺そうとするが失敗。言わずと知れたヤバイ精神疾患治療法の「ロボトミー手術」(前頭葉に穴を開けるどう考えてもヤバイ施術だが、1950年代まで現実に横行していた)を受けさせられ、マクマーフィーは白痴となり映画は終わる。

 

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「カッコーの巣の上に」は精神病患者、ひいては心身に何らかの疾患を持つ病人たちの人権を問う映画だったと記憶しているが、よく笑いよく怒るマクマーフィーが完全に人ならざる「もの」にされてしまうラストに、私は狼狽した。またタチの悪いことに、これまでのハートフルなストーリーがすべて吹き飛ぶくらい、役者の演技が完璧だった。もともとの視聴きっかけは、当時ロボトミー手術に興味があったので観てみるかぐらいのものだったが、正気を失った人間の恐ろしさのみが私の頭に植え付けられてしまった。

 

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私が送られた病院には、マクマーフィーのような正気を保った荒くれ者はいなかったが、その代わりにラストシーンのマクマーフィーのような患者さんはたくさんいた。幼い子供でも、手足の自由が効かない老人でもないのに、一人で風呂にも入れない中年女性。ロビーで一日中放心している若い男性。一見普通に見えて、スーツを着ていれば働き盛りのサラリーマンに見えるような男性たちでも、彼らの会話する様子を覗き見ると、どこか表情に締まりがなく、弛緩しきっているように見えた。

病院で生活しているうちに分かったことだが、この病院の中は完全に俗世と隔離された異世界だった。リスク管理のために、自分の病室にはお菓子の類や簡単な雑貨類しか持ち込むことができなかったし、一般の病院のように治療のためのリハビリなどが行われている様子もなかった。お風呂は広めの浴場が病院内にあり、予約をすれば週に2〜3回、入浴することができた。1日の間で「時間」という概念を思い出すのは、原則全員が長テーブルに揃って摂る3回の食事のみで、その他の時間は各々が自由に生活できる。私は身体が弱り切っていたため、1Fにある売店まで歩くことも難しく、ほぼ1日中ベッドで横になっていたが、比較的元気な患者たちは将棋や囲碁を打ち1日が過ぎるのを待っていた。あまり知られていないことだが、痴呆症の患者も精神科にかかるので、病院内には老人もたくさんいた。痴呆症というのは、罹患すれば物忘れだけでなく人間性も大きく変化する厄介な病気で、老人の何人かは廊下で怒号をあげ喧嘩をしていた。「ストリートファイターかよ」と思うほど激しいバトルが繰り広げられていたこともある。彼らはケンでもリュウでもビアンカでもないので、喧嘩が始まると拡張ピアスをつけた若い職員が駆けつけ、彼らを羽交い締めにして喧嘩を止めた。そんな異常な「事案」も、病院内では日常だ。ビビリまくっている私を尻目に、他の入院患者たちは「ま〜た◯◯のジジイだよ」と言わんばかりに、弛緩しきったヘラヘラ笑いを浮かべていた。

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そんな病院内でも、おそらく私は厄介な患者だったと思う。他の患者のように廊下でストリートファイトもせず、夜中に隣の隣の部屋まで響き渡る奇声を上げることもなかったが、とにかく食事を摂れない私に、職員たちは面倒くさそうな顔で対処してくれた。食べたくても食べられない。胃がびくつき、すぐに戻してしまうのだ。もうこの頃には酒も完全に断っていたが、簡単なゼリーぐらいしか満足に食べられない私に、職員は点滴を打ってくれようとした。しかし、職員の腕がないのか私の血管が細いのか(おそらく両方)9回注射を失敗された挙句に「今日はもうやめておこうね」などと言われていた。「『もう』ってなんだよ。点滴に『もう』とかないだろ普通」頭では分かっていたが、もうツッコミの気力も残っていなかった私は、物も言わず食事も摂らず、ベッドの上で1日中寝て過ごすようになった。完全なる生きるしかばねと化していたが、家族が面会に来てくれる日だけ、私は人間に戻ることができた。

家族は私を、完全に慈しみの目で見ていた。弱り切り、まともに歩くこともできない娘と対峙するのは、さぞ胸が痛んだだろう。揃って嘘をつくのが下手な両親なので、表情にはいつも悲しみの色が浮かんでいたが、それでも私を元気付けようと、頻繁に面会に訪れ他愛もない話をしてくれた。駅前に安くて美味しい食堂を見つけたこと、最近ではその食堂のおかみさんが、少しお代をまけてくれること、母方の祖母の家に遊びにいったこと、外はもう冬が明けたこと。病室での会話は迷惑になるので、それらの話を私は受付の長椅子に横たわったまま聞き続けた。正直、座り続けることも出来ない身体で両親の話を聞くのが辛い日もあったが、「せめて少しは元気なふりをしよう」という気概だけが、私を人間に保ってくれていたと思う。一度、父が気分転換に歩いて3分のコンビニに連れ出そうとしてくれたが、1分歩いただけで膝から崩れ落ちたことがあった。初めから、コンビニになんて行けないことは分かっていたが、私が笑顔で喜ぶことが親の救いになればと無理をした。今思うと、あの頃の私にはまだ正気だけは残っていたが、次の日死んでしまってもおかしくないくらい身体はボロボロだった。事実、その1ヶ月後私は心肺停止に陥ることとなる。

 

私の心臓が止まるまでの間、荒んだ入院生活の中で、私にも「知り合い」と呼べる入院患者ができた。これも普通の病院なら考えられないことではあるが、精神病院には喫煙スペースが設けられていた。しかも、来訪者用などではなく、病室が集う階と同階に、まあまあ大きめのスペースが確保されていた。理由はわからないが、あまり我慢を強いると患者の調子が悪くなってしまうからだろう。もちろん、ライターは病室には持ち込めないので、受付で名前を告げ、ライターを借り、スペースに向かう。その喫煙スペースで、よく顔を合わせる同世代の女の子がいた。変な洋モクを吸っている、小太りでメガネの女の子だった。珍しい同世代の入院患者だった私たちは、いつからか二言三言言葉を交わすようになった。話を聞くと、彼女は何度も繰り返し、この病院に入院しているらしかった。