変じゃないブログ

なんかいろいろ。へんしゅうぎょう。ツイッターは@henjanaimon

精神病等に入院していたときの話❸

私はいまだに1日1箱タバコを吸う。完全に、惰性でスパスパ軽やかに、8ミリのメンソールタバコを愛飲している。私が通っていた大学というのは、「名前さえ書けば入学できる」と揶揄されるような学力しか誇らない女子大だったが、いわゆる「お嬢様大学」で、学び舎にはたくさんの育ちが良さそうなお嬢さんがいた。そのお嬢さんたちの一人に、喫煙について言われたことがある。「タバコを吸う人は、何かに依存していないといけない、心の弱い人なんだよ」と。

そのお嬢さんのご指摘通り、19歳の私は何かに依存しないと自我が保てないような人間だった。しかもその悪癖は改善されることなく、私は依存する対象を次々増やし、7年後には精神病棟にブチこまれる大人になっていた。

 

その女の子とは、本当にいつのまにか、きっかけも思い出せないぐらい自然に言葉を交わすようになっていた。半分が痴呆症の高齢者。あとは、一般的に「社会の落伍者」と言われてしまうような人たちだろう。なんらかの疾患を抱えた中年がほとんどの病院の中で、私と彼女は珍しい「20代の女性患者」だった。受付に申告しないと借りられないライターを貸してあげただとか、珍しい洋モクを愛飲していた彼女に声をかけただとか、些細なきっかけで、性別と年齢を共有していた私と彼女は世間話を交わす仲になった。

といっても、初めてこの病院に入院する私と違い、彼女には何人か、病院内に「顔見知り」がいるようだった。この病院では朝昼夕の食事を、患者全員が揃って大きなロビーでとることがしきたりになっていて、学生の頃から友人がいなかった私は、学生時代と同じくひとり隅っこで食事をとっていた。彼女と知り合ってからは、彼女が声をかけてくれて何度か対面に座り食事をとったが、前述通り私は満足に食事ができなかったので、いつも早々に席を後にした。彼女と彼女の顔見知りの人たちは、そんな私を「無理しなくていいんだよ」といったような、やさしい顔で見つめてくれたのが嬉しかった。「こんな人たちしかいない所に入れられるなんて」病院内の非日常感に飲まれ、初めはそう感じた私だったが、彼女たちの存在に少し救われたような思いがした。『まともな人もいるんだ、まともな人でも、こういうところに入れられるんだ。』今にして思えば、私は嫌らしい選民意識を持っていたことがよくわかる。たくさんいる入院患者の中で、食事すら取れないのは私だけだったのに、私はまだ「自分は違う」と思い込んでいた。この自意識の過剰さが、私を陥れた要因の一つだったのに、私は何も理解しようとしていなかった。

 

ある日、病院内の喫煙所で彼女と鉢合わせた。この頃には、私たちはかなりの数の言葉を交わしていたので、挨拶も自然なものになっていた。そして彼女から、あと数週間で退院する旨の知らせを受けた。「自分は他の患者とは違う」と思い込んでいた私は、なんの疑いもなく彼女に「よかったね〜!」と声をかけた。彼女の顔は、みるみる曇り、小さく動く口から「よくないかな」と、呟くような言葉が聞こえた。いつも明るく、たまに親への憎しみを述べる時以外は陽気に見える彼女が、初めて見せたとても暗い顔だった。

「ま、出てもまたすぐ戻ってくるし!いつもそうだから。外で暮らすとかありえないから!」そう明るく言う彼女は、言葉以外はとても病んでいるようには見えなかった。

 

私は、この病院の中で食事が取れなかったわけではない。アルコールを断った後、胃のこむら返りは徐々に収まり、食べようと思えば普通に食事をすることができた。でも、そうしなかった。もちろん食べたくない日もあったが、食べられないふりをして、食事を回避した日も多くあった。職員の手前、数口食事をとった日はすぐにトイレに向かい、自ら口に指を入れ胃の中のものをすべて嘔吐した。

死にたかった。私はあの時、どうしても死にたかった。病院に入れられたのは予測外だったが、本当は食事を回避しアルコールだけを飲み続け、死ぬつもりだった。こんな状態になっても足繁く見舞いに来てくれる両親を悲しませないため、首吊りや飛び降りなど、「自殺」以外の判決が下されない方法は避けたかった。だから、私は食事を拒み続けた。職員に隠れ、両親に隠れ、私は食べたものを吐き続けていた。

私の計画は完璧だった。だからこそ、今足元もおぼつかなくなり、体がどんどん弱ってきている。このままいくと、私は死ねる。そう、確信していた。

 

これも、私の嫌な選民意識の一つだったと思う。私は、選択して今の自分を作った。ヨボヨボで生気がなくて、まともに歩けず、食事も取れない自分を。そういう自意識があった。だからこそ、彼女の屈託のない笑顔が胸に響いた。この子はきっと、何もかもを諦めている。生きることも、死ぬことも。彼女だけではない。他の人たちも何にも抗うことなく、静かに「この病院にいる自分」を受け入れているのだ。「死ぬこと」とはいえ、何かに向かって執念を燃やす私と、今あることの全てを静かに受け入れている彼らとでは、大きな隔たりがあった。入院当初から、私が感じていた違和感の正体はそれだった。今まで何度精神が病んだか分からない。やっと今、「死」へとうまく歩けていけてる実感がある。だからこそ、同じ「精神病」とされているのに、私のように昂りも荒ぶりもしない彼らに、違和感は初めからあった。その日、彼女の明るい顔に、私は答えを見出してしまった。

 

それから数日後、彼女の退院と時を同じくして、私も病院を出ることになった。一時帰宅先の自宅で心臓発作を起こし、意識不明となった私は、緊急搬送で別病院のICUに運ばれたからだった。私はその病院のICUで10日間の昏睡のすえ意識を取り戻し、そちらの病院で治療を受けることになった。透析やリハビリなど、施設の整った病院でしか受けられない治療が私の身体には必要だった。手厚い看護を受け、心臓発作から2ヶ月後、私は久々に病院外の世界に戻ることになったのだった。

 

その後、私は自殺を企てることなく、社会復帰を果たした。普通の顔をして暮らし、普通の顔をして面接を受け、普通の顔をして合格通知を受け取り、普通の顔をして会社に通勤した。恐らく私の姿を見て、精神病棟への入院歴に気付く人など誰もいなかったと思う。幸いなことに、私は仕事ができない方ではなかったため、ある程度の評価を受けることもできた。私は、完全に「普通の人」に成ることができてしまった。私には、しょうもない虚栄心も、くだらないプライドも、それを踏みつけられたくない競争心も、すべての煩悩があった。だからこそ、普通のくだらない人間に成ることが叶ったのだ。

 

カッコーの巣の上で」に出てきたマクマーフィーは、血気が盛んで野蛮で無礼で、とんでもない荒くれ者だった。だからこそ、病院の中で仲間を焚きつけることができたし、厄介者と疎まれ、最後には人間らしさの全てを切除されてしまった。

完全に煩悩の世界の住人となった今、私はたまに彼女のことを思い出す。とても「ここ」以外では生きられないと、軽く笑っていた彼女。囲碁か将棋をして日が落ちるのを待つ患者たち。誰も、見舞いに姿を見せない彼らのことを。

カトリックにおいて、人は七つの大罪を抱えて生きているとされている。傲慢さがなければ自分に自信は持てないし、嫉妬の気持ちがなければ能力を伸ばすこともできない。憤怒しないことには悲しみに心が押し潰されてしまうし、少しの怠惰がないと、頑張りは長く続かない。強欲さがなければ欲しいものへの活力も失ってしまう。いうならば、現代の食事はすべてが暴食だ。私には、それが罪だとは到底思えない。

すべての罪を前頭葉ごと、マクマーフィーのように奪い取られなかった私は恥ずべき存在なのかもしれない。それでも私は、自分に優しく笑いかけてくれた彼女たちが、すべての罪を課せられ汚い下界に落とされてくれれば、と思う。一緒に罪を背負って、自分の行く道を決めればいい。誰も見舞いに来てくれない病院に、マクマーフィーが来てくれるのはフィクションの話だ。彼女たちの意思を伺える術はもうないが、私はまた次に死ぬ時まで、恥と罪にまみれた自分から、目を逸らすのはやめにしようと決めている。

精神病棟に入院していたときの話❷

この記事を読んでくださっている方の中で、「カッコーの巣の上で」という古いアメリカ映画をご存知の方はどれくらいいるのだろうか。

刑務所収容を逃れるため、詐病を使い精神病院送りとなった荒くれ者の主人公マクマーフィーが、精神病院内でも荒くれまくり、古い体勢や独裁的な看護師長に反抗し続け、そんなマクマーフィーの人間らしさに、周りの入院患者たちも徐々に人間らしさを取り戻していくハートフルなヒューマンドラマだが、この映画を視聴した中学生当時、私はその救いのないラストに絶望した。

ある日、マクマーフィーは女友達を精神病院内に招き入れ、いつものごとく荒くれまくり、どんちゃん騒ぎを始める。マクマーフィーには可愛がっているビリーという入院患者がいたのだが、どうやら、ビリーが女友達の一人を好きになってしまったらしい。マクマーフィーは女友達にビリーの筆下ろしを頼み、めでたくビリーはDT卒業となるが、その事が看護師長に知れ、看護師長は激怒。ビリーの母親にその夜の出来事を報告してしまい、マザコン(母親は毒親っぽかった記憶がある)のビリーは自害してしまう。マクマーフィーはビリーの死に怒り狂い、師長を殺そうとするが失敗。言わずと知れたヤバイ精神疾患治療法の「ロボトミー手術」(前頭葉に穴を開けるどう考えてもヤバイ施術だが、1950年代まで現実に横行していた)を受けさせられ、マクマーフィーは白痴となり映画は終わる。

 

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「カッコーの巣の上に」は精神病患者、ひいては心身に何らかの疾患を持つ病人たちの人権を問う映画だったと記憶しているが、よく笑いよく怒るマクマーフィーが完全に人ならざる「もの」にされてしまうラストに、私は狼狽した。またタチの悪いことに、これまでのハートフルなストーリーがすべて吹き飛ぶくらい、役者の演技が完璧だった。もともとの視聴きっかけは、当時ロボトミー手術に興味があったので観てみるかぐらいのものだったが、正気を失った人間の恐ろしさのみが私の頭に植え付けられてしまった。

 

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私が送られた病院には、マクマーフィーのような正気を保った荒くれ者はいなかったが、その代わりにラストシーンのマクマーフィーのような患者さんはたくさんいた。幼い子供でも、手足の自由が効かない老人でもないのに、一人で風呂にも入れない中年女性。ロビーで一日中放心している若い男性。一見普通に見えて、スーツを着ていれば働き盛りのサラリーマンに見えるような男性たちでも、彼らの会話する様子を覗き見ると、どこか表情に締まりがなく、弛緩しきっているように見えた。

病院で生活しているうちに分かったことだが、この病院の中は完全に俗世と隔離された異世界だった。リスク管理のために、自分の病室にはお菓子の類や簡単な雑貨類しか持ち込むことができなかったし、一般の病院のように治療のためのリハビリなどが行われている様子もなかった。お風呂は広めの浴場が病院内にあり、予約をすれば週に2〜3回、入浴することができた。1日の間で「時間」という概念を思い出すのは、原則全員が長テーブルに揃って摂る3回の食事のみで、その他の時間は各々が自由に生活できる。私は身体が弱り切っていたため、1Fにある売店まで歩くことも難しく、ほぼ1日中ベッドで横になっていたが、比較的元気な患者たちは将棋や囲碁を打ち1日が過ぎるのを待っていた。あまり知られていないことだが、痴呆症の患者も精神科にかかるので、病院内には老人もたくさんいた。痴呆症というのは、罹患すれば物忘れだけでなく人間性も大きく変化する厄介な病気で、老人の何人かは廊下で怒号をあげ喧嘩をしていた。「ストリートファイターかよ」と思うほど激しいバトルが繰り広げられていたこともある。彼らはケンでもリュウでもビアンカでもないので、喧嘩が始まると拡張ピアスをつけた若い職員が駆けつけ、彼らを羽交い締めにして喧嘩を止めた。そんな異常な「事案」も、病院内では日常だ。ビビリまくっている私を尻目に、他の入院患者たちは「ま〜た◯◯のジジイだよ」と言わんばかりに、弛緩しきったヘラヘラ笑いを浮かべていた。

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そんな病院内でも、おそらく私は厄介な患者だったと思う。他の患者のように廊下でストリートファイトもせず、夜中に隣の隣の部屋まで響き渡る奇声を上げることもなかったが、とにかく食事を摂れない私に、職員たちは面倒くさそうな顔で対処してくれた。食べたくても食べられない。胃がびくつき、すぐに戻してしまうのだ。もうこの頃には酒も完全に断っていたが、簡単なゼリーぐらいしか満足に食べられない私に、職員は点滴を打ってくれようとした。しかし、職員の腕がないのか私の血管が細いのか(おそらく両方)9回注射を失敗された挙句に「今日はもうやめておこうね」などと言われていた。「『もう』ってなんだよ。点滴に『もう』とかないだろ普通」頭では分かっていたが、もうツッコミの気力も残っていなかった私は、物も言わず食事も摂らず、ベッドの上で1日中寝て過ごすようになった。完全なる生きるしかばねと化していたが、家族が面会に来てくれる日だけ、私は人間に戻ることができた。

家族は私を、完全に慈しみの目で見ていた。弱り切り、まともに歩くこともできない娘と対峙するのは、さぞ胸が痛んだだろう。揃って嘘をつくのが下手な両親なので、表情にはいつも悲しみの色が浮かんでいたが、それでも私を元気付けようと、頻繁に面会に訪れ他愛もない話をしてくれた。駅前に安くて美味しい食堂を見つけたこと、最近ではその食堂のおかみさんが、少しお代をまけてくれること、母方の祖母の家に遊びにいったこと、外はもう冬が明けたこと。病室での会話は迷惑になるので、それらの話を私は受付の長椅子に横たわったまま聞き続けた。正直、座り続けることも出来ない身体で両親の話を聞くのが辛い日もあったが、「せめて少しは元気なふりをしよう」という気概だけが、私を人間に保ってくれていたと思う。一度、父が気分転換に歩いて3分のコンビニに連れ出そうとしてくれたが、1分歩いただけで膝から崩れ落ちたことがあった。初めから、コンビニになんて行けないことは分かっていたが、私が笑顔で喜ぶことが親の救いになればと無理をした。今思うと、あの頃の私にはまだ正気だけは残っていたが、次の日死んでしまってもおかしくないくらい身体はボロボロだった。事実、その1ヶ月後私は心肺停止に陥ることとなる。

 

私の心臓が止まるまでの間、荒んだ入院生活の中で、私にも「知り合い」と呼べる入院患者ができた。これも普通の病院なら考えられないことではあるが、精神病院には喫煙スペースが設けられていた。しかも、来訪者用などではなく、病室が集う階と同階に、まあまあ大きめのスペースが確保されていた。理由はわからないが、あまり我慢を強いると患者の調子が悪くなってしまうからだろう。もちろん、ライターは病室には持ち込めないので、受付で名前を告げ、ライターを借り、スペースに向かう。その喫煙スペースで、よく顔を合わせる同世代の女の子がいた。変な洋モクを吸っている、小太りでメガネの女の子だった。珍しい同世代の入院患者だった私たちは、いつからか二言三言言葉を交わすようになった。話を聞くと、彼女は何度も繰り返し、この病院に入院しているらしかった。

精神病棟に入院していたときの話❶

2016年末、私はボロボロだった。メンタルではなく、体の話だ。

とにかく、何を食べても即座に戻してしまう。アルコール中毒だったので、「お酒を飲まないとダメになってしまう」という強迫観念に取り憑かれ酒は飲んでいたものの、最後にはその酒もマーライオンが如く口から噴出するようになった。最後には、水やお粥を口にしても吐く、人間スプラッシュマウンテンと化していた。

「絶対に何かがおかしい」まだ普通に二足歩行はできていた頃、私は一人で近所の内科を訪れた。私の血液検査の数値を見た医者は「あなたはうちではなく、精神科医に診察してもらってください」と、文字通りさじを投げた。肝臓の不調を測るγ-GTPという数値が、基準値の20倍を示していたからだ。

私はいい歳ぶっこいて今でも実家で暮らしているので、とうとう歩くのもおぼつかなくなった私を見兼ねた両親は、私を連れて精神科病院を訪れた。その精神科医の定期診察を受けていたのは当時からもう1年以上前のことだったが、親も精神的に参っていて藁をも掴む気持ちだったのだろう。青い顔をした両親に、医者は「重度の拒食症だろう。入院してもらうことになる」と告げた。

後日、私は家から車で1時間かかる大きな精神病棟で、違う医師の診察を受けることとなった。頭も朦朧としていてあまり覚えていないが、紹介状があった為かその場で即日の入院が決まった覚えがある。

病院の受付時点で、その病院のただならぬ雰囲気は感じ取れた。受付前の待合椅子で、大人なのにだらしなく横になる人。診察を待っているのかいないのか、人ならざる目をして、何かをぶつぶつ呟く老人。うまい例えが見つからないが、地獄というものがあるのならこんな感じなんだろうな、と受付時点で察することができる有様だった。

「あなたの病室の横には桜の樹があるから、春には病室から綺麗な桜が見れますよ」そう医者に告げられ、弱った頭で私は(いや、桜の季節までこんなとこおらなあかんのかい)と思った。病室のある階にいくと、襟ぐりがグダングダンになった薄い白Tシャツ1枚で惚けている男性、看護師さんに付き添われながら意味不明なうわ言を呟き歩く女性など、受付で見た人たちより猛者が病院内をウロウロしていた。でも、私もここに入れられた限り、健常者より彼らにぐっと近い人間なんだと、失礼を承知で胸が痛む思いがした。いったい、私はいつからこうなってしまったんだろう。

2年前の2014年。私は横浜市に住んでいた。2012年に故郷である大阪に戻って以来、夢にまで見た東京(横浜ではあるが)での再スタートを始めていた。2013年より大阪で交際していた、関東から赴任してきた男性が関東に戻るので、私も連れて同棲するかたちで、横浜で生活していた。今思うと彼がとんでもないモラル・ハラスメント男で、私は「◯◯は社会性がないんだから、すぐ鬱になるんだから、働きになんて出てはいけないよ」と告げられ、家で専業主婦のようなことをしていた。当時から家事は好きだったが、生活費は彼が与えてくれるお金のみで、私は食費や必要経費を彼に催促するのがとても嫌だった。自分はずっと家にいるのに、「お金が足りないです、寄越しな」と言えるような図太さは私にはなかったのだ。彼だけを責めるつもりはないが、そんな生活の中で私は病みに病み、ついに彼に父親を呼び出され父親の目の前で別れ話を強いられたあげく、「娘さんを連れて帰ってください」と告げられた。いや、やっぱり34歳の男が24歳の女に「ずっと家にいろ」と強いた挙句に、別れ話に女の親を呼び出すのはおかしいぞ。彼だけを責めます。このファッキンキチガイが!大体な、「入院して」って言ってきた精神科医だって、元々はお前が私を階段から落としてきたりで病んで通いだしたん(5000文字くらい愚痴を書きそうなので割愛する)

モラル・ハラスメント男がキチガイだったことは置いといて、無理やり父親に自分を押し付けられ、次の日には新幹線に詰め込まれていた私は、その時からキチガイへの道を歩み始めた。その後に交際を始めた男性が、私に隠れて『奴隷』と称する女を何人か抱えていて、更に裏で乱交パーティを主催。パーティで同性愛者でもないのに男とセックスするような男性だったのも、私のキチガイ化に拍車をかけた。(彼のことは一切好きではなかったので泳がせていたが、ある時喧嘩になり乱交パーティの件を問い詰めると「ごめん、映画『ソドムの市』みたいなことがしたかった。京橋の立ち飲み屋で隣のじじいに『ニィちゃん、デカイ女好きか?』って声かけられたのがきっかけ」と白状した。ちなみに、私はそのじじいとDQN化したマツコデラックスみたいな女が全裸でツーショットピースしている写真も知っていた。京橋の立ち飲み屋でなにが『ソドムの市』じゃピエル・パオロ・パゾリーニ監督に謝れ)

 

「私がデブでブスで、その上何にもできないから、こういう人ばかり寄ってくるんだ。せめて、デブをやめよう。というよりもう、私でいることをやめたい」モラ男に追い出された私は、酒を浴びるほど飲んで体重が15キロほど増加していた。今思うと何らかの身体疾患をもつもの特有の異様な太りかたをしていたから、食事制限をしても何をしても体重が減らなかった。醜くなり果てた自分の体も、私の頭を悩ませる一因だった。あらゆる悩みに苦しむのも疲れた私は、決意のもとに、ある時から食事を抜き、ひたすら酒を飲むようになってしまった。私の、緩やかな自殺はここから始まったのだ。

「生きなければいけない」

昔から、飄々としていて大らかな人に弱いと思う。「人は、自分にないものを持っている人に惹かれる」の典型例だ。

私は昔から、強迫観念が強い上にすぐパニックに陥る。自分ではぼんやりとしか覚えていないが、小学生の頃「手を石鹸で洗いましょう」と先生に教わった後、私は手から水分が奪われあかぎれを起こし、あかぎれが切れて出血するまで手を洗っていたらしい。まだ幼い頃のエピソードにしても、「頭イってんな」ということが窺い知れる思い出話だと思う。ちなみに、決して綺麗好きというわけではない。小学生の頃から整理整頓は苦手だったし、よく片付けに関して親に苦言を呈されていた。「〜しなければいけない」という思いにものすごく取り憑かれやすいだけで、その時はたまたま対象が「手洗い」だったというだけだ。

高校生の頃に17キロ痩せた話は何度も書いたが、「絶対にリバウンドしてはいけない」という意識から極端な拒食を何度も繰り返し、思春期の盛りなのに月経も1年ほど止まっていた。また、私の血を分けた妹は私よりもストイックなせいか、強迫観念もストイックを極め164cm34kgの誰が見てもヤバい体系まで痩せ細ってしまった。いわゆる精神疾患的なものは、だいたいが生まれ育った環境に由来する。妹までこうだったということは、「メンヘラ」の太鼓判を押されたのと同じことだ。

私は23歳の頃、精神科医に8つほど病名をつけられ、精神疾患の総合商社のようになっていた。「疑惑の総合商社」といえば一世を風靡した鈴木宗男のことだが、私は大阪の真ん中でまた違う人間総合商社に成り果てていた。結局、その医師の処方した薬のせいで死にかけたので、診断が正しいものだったかはどうかは少し怪しいが、しっかりと医師免許を持っている人間に8つも病名をつけられたというだけで、なかなかの実績だ。

その中の一つに「不安障害」というものがあった。この疾患はよく聞くPSTDなども含まれる疾患で、不安を主な症状とする、数ある疾患群をまとめた名称だ。過去の体験によるトラウマ由来のものも含まれる。私がこの疾患を抱えるに至った原因は、恐らく実父だった。

私が子供の頃、実父は平日はほぼ家におらず、週末だけ東京出張から帰ってくるような生活をしていた。父は私たち姉妹をプールに連れ出したり、バーベキューに連れ出したり、健やかな良き父であると同時に、キレると何をするか分からなかった。

一例を挙げると、自分の趣味であるジョギングへの同伴を拒否し、お人形遊びをしていた妹の腕や肩を後ろから蹴る(人形は飛んでいったらしい)、「8」の字を右上からではなく左上から書く癖があった私に怒りをぶちまけ、ノート1冊「8」の字で埋まるまで怒鳴りながら監視する、アルコールが入ると社会的秩序が守れなくなり、野外イベントで注意にきたアルバイトの若い女性を私の前で泣くまで怒鳴りつける、飲食店で不注意からお冷やを倒してしまった私の頭を上から揺れるほど叩きつけるなど、今思えばわりとメチャクチャだった。

母親は私たちがそういった理不尽に晒されているとき、無気力な顔でこちらを見ないようにしていることが多かったように思う。あまりに近しい存在すぎて忘れがちだが、私たち女性は、本気の男性の手にかかれば、男性が素手でも恐らく10分も経たずに絶命する。暴力的なニュースを見るたびに我にかえるが、非力な私たちが男性に危害を加えられずに過ごせるのは、彼らの「モラル」というあまりにも頼りない存在のお陰に過ぎない。そういった側面を考えれば、母が父に恐れをなし(諦めも含め)、私たちを助けてくれなかったことを、私は恨んではいない。

父親はいわゆる「ええとこの子」だった。両親共に有名大学の出で、長男だった父はかなり厳しく躾けられたようだった。恐らく、プレッシャーに感じる両親の期待も、彼の背中には乗っかっていた。身長が高く、関西でいう「シュッとしてる」部類の男性だった父は、結局両親とは違う大学に進み、ファッションや映画など、自分の趣味を満喫していたようだが、成人するまでの間、(本人が語ったわけではないにしろ)色々と辛い思いをしていたのが窺い知れた。父の弟は、父とは真逆で温和な性格かつ、ファッションなどには無頓着な朴訥とした男性で、彼はストレート合格で両親と同じ大学に進んだ。

簡略化したが、こういった父の身の上は本人の口から語られないでも、苦悩の日々がなんとなく想像できるものだった。後日発覚した20年弱にも及ぶ父の東京での不倫相手は、もしかしたらそういった父の弱い面を受け入れてくれる女性だったのかな、とも思う。(母親にしては溜まったもんじゃないだろうが)

 

うちの両親はよく「私たちは本当に子供を甘やかしてきた」と口にしていた。私が30歳になった今でも、よく言われるワードだ。私は20歳前半までこの言葉を全面的に信頼していて、とても苦しい思いをした。「普通の家庭で、甘やかされて育ったのに、精神病の総合商社のような大人になった自分」を責めて、蔑んで、悲しんだ。自分の失態はすべて自分だけのせいだと、悩み抜いて抜け出せないところまで落ち、私は自殺を試みてしまった。それでも、皮肉なことに両親の119番と父の心臓マッサージのおかげで、まだこの世にとどまった。

私は両親が嫌いではない。むしろ、好意的に思っている。父も本来穏やかで繊細な人なのだろう。今では憑き物が落ちたように落ち着き、母は昔から陽気でとにかく可愛い女性だから、幸せでいてほしいと自然に願うことができる。早く立派な人間になって、親孝行をしたいと心から思える大切な存在だ。今では、「子供の頃いやだったよ」と話せば、母は同情し、父は謝罪をしてくれる関係性にもなれた。

しかし、たまに思うことがある。精神状態が最悪の頃、不特定多数の男性と(性愛をのぞけば、女性も)遊んでいた私は、もしかしたら幼少期に欲しかったものを必死でかき集めていたんだろうか。もっともっとたくさん享受するはずだった「無条件の愛情」を他人に求めていたのだろうか。そうだとしたら、それ以上恐ろしいことはない。私は手に入るはずがないと分かっていて、自傷も兼ねてそういったことをしていた。本当に私がしたかったことは、どうでもいい不特定多数に愛想を振りまくことではなく、幼い頃の自分、幼い頃の父親でもいい、どちらか、あるいは両方のもとに行き、泣いてる二人に思い切り愛情を注ぐことだった。それを、他人を媒介にして実現しようとしたって、何の結果も生まないことは、分かっていたから私は病んでしまった。一度死んでクリアーな頭で考え、私のこれまでの人生の多くは、わざと自分を傷つけることに尽力していたことが分かってしまったのだった。

いざ、自分のことが分かったとはいえ、すべてを達観できるわけではない。過去のように不特定多数ではなく自分が好意的に思っている相手にだけ、好意を示せるようにはなったものの、示し方はかなりぎこちない。これまでの経歴に反して、恋愛面に至っては「エリートのポンコツ」とまで言われているし、その他にも私はまだまだ人より思い悩むことが多い。「〜しなければいけない」という観念に取り憑かれることもたまにある。でも、今は悲しくて泣いていた我が家以外の場所にも、自分の足で歩いていける身体がある。一度は手放しかけたものだが、なんの障害も負わず私の元に戻ってきてくれたタフな足だ。誰にでも、会いたいと思えば会いにいけてしまう。

私が飄々としていておおらかな人に弱いのは、単なる好意だけでなく「憧れ」の側面が強いと思う。自己と状況を冷静に分析し、その上でドンと構える。パニックになり慌てふためく私と真逆の存在だ。最近は新型ウイルスのせいで気が滅入ることが多い生活だが、生きてさえいれば、私でもそんな存在になれるのかもしれない。

人は簡単に死ぬし、殺されもする。でも、生きてさえいれば。消極的な希望かもしれないが、私はこの年まで情けなくも生き続けたから、両親も自分のことも、受け入れることが出来つつある。排他的で利己的な希望でも、「生きてさえいれば」何とかなるかもしれない。

どれだけ自分が情けなくても、世界に暗雲がたちこめ日々辛いことがあっても、生きようと今ではなんとか前を向ける。私は「生きなければいけない」という自分の気持ちを、ただの強迫観念だとは、どうしても思えない。

小さな方舟

私は大学3年生になる直前、唐突に大学を中退しなければいけなくなった。「なんか計算したら、これから学費出せないっぽいわ」という割とトンデモな家庭の事情が理由だった。

21歳の私は、ある日いきなり「学生」から「フリーター」になった。

当時私は、大学に通いつつ小売店でのバイトと、バニーガール姿でのお給仕バイトを行なっていた。フリーターになったからには、今日からこの2つが「本業」だ。「あの人って、ちょっと変わってるよね(笑)」と昔から各所で爪弾きにあっていた私のことを受入れてくれる、どちらも居心地の良い職場だったが、金銭的な面や社会的な面で私は不安を抱いていた。「こんなその日暮らしの働き方がいつまで持つのか」本来であれば、大学に通いながら就活をし、円満に退職するつもりであった2つのバイト先を退職し、私は地元大阪に帰った。22歳になる数日前のことだった。

地元に帰った私は、とある新聞社の校正部で働くことになった。本当にたまたま求人情報誌で見かけただけの仕事だったが、「そういえば編集の仕事って面白そうだな」と軽い気持ちで応募し、とんとん拍子で話が進んだ。応募してから1ヶ月もたたないうちに、私は契約社員として勤務することとなった。

同世代の友人たちが立派に大学を卒業し、就職先で働き始めていた頃、予期せず大学を中退することとなった私は焦っていた。大学に通い、周りに合わせて就活し、就職する。安定したレールの上を歩くはずだった人生計画が、突然に狂ってしまったからだった。それでもなんとか、契約社員の職を得ることができた。「とりあえずは安泰かな」と胸を撫で下ろす気持ちだったが、それが甘い考えだったことを、私はすぐ知ることになる。

 

今はどうか知らないが、私が勤務していた約8年前まで、新聞社は恐ろしく体育会系の職場だった。男性社員の割合が圧倒的に多く、毎日発行されるという媒体の性質上、常にスピード感が求められる環境だった。「校正部」は原稿を書く場所でなく、原稿のミスを見つけることに特化した部署だ。「毎日新聞のミスを探して、新聞社に電話をかけることを趣味にしてる人もいるから、絶対見逃しがないようにね」勤務初期に私が先輩に言われた言葉だ。世の中に色んなやべぇやつがいることはなんとなく知っていたが、そんなやつがいるとは。私は唖然としたが、先輩たちは皆その事を分かっているのか、毎日目を皿にして真面目に原稿をチェックしていた。

勤務日初日に、共同通信社が発行している「記者ハンドブック」を渡され、それを基準に間違った表記がないか原稿を読みまくり誤表記を探すのが、校正部の主な仕事だ。昼勤と夜勤に分かれ、朝刊と夕刊をチェックし、ミスがあれば各部署まで出向き、訂正を求める。スポーツ部の人たちは特に体育会系の色が強く、「校正部のものですが」と声をかけただけで、タバコの匂いがプンプンする男性社員に露骨に嫌な顔をされた。「このことわざは本来の意味と少しズレるので、別の表現をお願いします」「この漢字は常用漢字ではないので、改変をお願いします」各部署の人たちに訂正を求め、訂正原稿をチェックし、文脈におかしなところはないか再度チェックし直す。地味な仕事だが、仕事自体は「人の揚げ足を取るのが大好き!」な私にあっていたようだった。しかし、校正部の人たちとは決定的にソリが合わなかった。

私の指導係に、当時の私より10歳くらい年上の女性社員がいた。お世辞にも見目麗しい容姿とはいえない、年老いたロバが2回くらい軽自動車に轢かれたような顔の女の人だった。その人は、とにかく私に冷たかった。毎日露骨にうんざりした顔で指導されていたが、ある日突然その女性ともう1人の女性に、社員食堂に呼び出された。

「あのさ、あなたが入ってくる前に校正部でちょっと揉め事があったんだよね」女性2人がいうには、私が入社する以前に校正部にいた若い女性が、校正部の中年社員をたぶらかし、校閲だけが仕事の校正部にいながら、自分の書いた原稿を誌面に掲載するよう中年社員に依頼し、実際に記事が掲載されてしまい大騒動になったそうだった。今考えると荒唐無稽な作り話であることがすぐわかるが、社会経験もなくまだ幼かった私はその作り話を信じ込んでしまった。「だからさ、あなたが悪いわけじゃないけど、校正部は今若い女の子を警戒してるんだよね。あなたは普通の2倍も3倍も頑張らなきゃいけないわけ」ロバは私がプレッシャーに思う言葉を選んで話しているようだった。今の私なら「は?じゃ給料2倍3倍になるんですか?ていうかあんたも契約社員だよね?私に偉そうに説教たれる身分じゃねーだろ」と思えるところだが(それもどうかと思うが)当時の私は完全に震え上がってしまった。

次の日からの勤務は、気が気じゃなかった。部全体が常に自分を見張り、警戒されているように感じた。優しい先輩も数人いたが、少しのミスも許されないような気がして、勤務中は常に胃が痛かった。喫煙所で他の部署のおじさんが気さくに話しかけてくれる時間だけが救いだったが、今思うとこれもロバの神経を逆撫でしていたようだった。新聞社は圧倒的に男性社員が多かったので、別に可愛いわけでもない私でも「なんか新しく若い女の子が入ってきたよ」というだけで声をかけてもらえた。今の私なら「うるせーくやしかったらお前もおじさんにチヤホヤされるようになってみろや、轢かれロバ女!」といえるが、他の部署の人と仲良く話す私を見るロバの鋭い目にも、私は萎縮していた。時には私のロッカーの中に、ロバから「今日の私さんの良くなかったところ」がまとめられた手紙が入れられていたりもした。つのだじろう恐怖新聞よろしく、その手紙を読むと自分の寿命が縮むような思いがした。

異常な環境に耐えられなくなった私は、家にあった一升瓶で自分の足を殴りつけ「捻挫しました」といって欠勤したり、精神的なものからくる腹痛で会社に行けなくなったりした。限界を感じ、4ヶ月目を迎える前に私は新聞社を辞めることにした。辞めたい旨を告げた際、部長は「あの女はそういうことをしそうだな」と話した後、「君も、派手な格好で勤務したりしてたんじゃないの?」と言い放った。私は毎日白いTシャツにジーパンという、現代版山下清画伯のような格好で通勤していたのに…。この時初めて「ああ、辞めるって決めてよかったな」と私は安堵のようなものを感じた。そしてやはり、私が入社する前の揉め事云々の話は、すべてロバの創作だったことも判明した。「やべえやつ」は、毎日新聞のミスを見つけて新聞社に電話をかけることを趣味にする輩だけでなく、社内にも存在していたのだ。

あれから8年の時がたった。私は今、どこの会社にも在籍していない。自分では「ちょっと忙しい無職」を自称している。「ちょっと忙しい」というのは、数社から仕事を委託契約で回してもらい、かろうじて少しは働けているからだ。

今の私は、編集と校正、ライティングを生業として生活している。あれだけ嫌でたまらなかった校正部の勤務経験だが、異常な環境下にいたからこそ、私は4ヶ月間毎日とてつもない集中力をもって仕事をした。まるで学生の宿題のように、給与も発生しないのに家に帰ってからも自主練をした。そのおかげか、新聞社を退社後入った編集プロダクションでは、毎日上司に怒られる日々の中で「校正だけはすごいできるじゃん」と褒めてもらえた。この上司はロバとはうって変わってとてもいい上司で、素っ気無い態度ながらも私に校正を任せてくれて、編集の基礎も叩き込んでくれた。そのおかげで、私は今でもショボいながらも編集の仕事ができている。

「校正」は地味な仕事だからか、あまりやりたがる人もいない完全裏方の仕事だ。そもそも、編集業が裏方の仕事なのに、その業務の中でもかなり陰の作業だと私は思っている。だからこそ、きちんと勉強してきた人も少なく、私ぐらいの能力でも校正の仕事を任せてもらえている。

新聞社を辞めた後、仕事面だけでなく、いろいろと辛いことが多かった。うつ病になったり、アルコール依存症になり、多臓器不全からの心肺停止を起こし、2ヶ月の入院を経験したりもした。私は今でもロバのことは許せないし、「街で見かけたら一発殴りてえ」とすら思っているが、同時に人生は経験の積み重ねで成り立っているということも、やっと理解できるようになった。私がロバに屈辱を感じさせられた日々も、今の私の仕事を構成する立派な一部だ。何かを恥じたり、悔いたりする必要はただの一つもないと今では思える。

旧約聖書「創世記」で、救世主ノアは方舟を作り、これにさまざまな生き物を乗せ地球上の沢山の生命を大洪水から救った。「会社」という小さな方舟の中で、幼く弱いカメだった私はロバに虐められ悲しい思いをしたが、長い人生を生きる上で大切なのは、その方舟の中でどう上手く生きるかではなく、ノアが救ったこの世界で地面に足をついて生きるため、その方舟を降りた後の自分の身の振り方を考えることだ。

いろいろな経験を経て今や凶暴なカミツキガメに成長してしまった気がしないでもない自分だが、もう小さな方舟はない。これからも、自分の身におこる経験の全てを生かして、働き続ける予感がしている。

転職nendo×はてなブログ 特別お題キャンペーン #しごとの思い出

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14歳。あだ名はストーカー❷

物心つく頃から太っていたり、ブスだったりする人間はいじられることに慣れてしまうものだ。と私は思う。もしかしたら関西の「おもろい」は最高の褒め言葉、「おもんない」は最高の侮蔑という、悪しき風習がそうさせているのかもしれないが、私自身は中学の頃には、いじられることに慣れてしまっていた。

だから、T先輩の件で上の学年から「Tのストーカー」と呼ばれても、なんとも思わないどころか、「ウケてんな」と思っていた。手応えを感じるなよ。T先輩からしたらいい迷惑である。友達がいなかった私の唯一の友達・心友は、私と仲良くしてくれていただけで上の学年に「ストーカーの友達」と呼ばれていた。そして、私が介する介さないは置いといて、T先輩自身もおかしな噂が付き纏う人だった。

私がストーカーとしてスキルアップを重ねていく前から、部室で同級生の陰毛を抜き「食べていい?」と聞いただの、二人乗りをしていたら後ろからT先輩の熱い抱擁をうけただの、ライトゲイみたいな噂を耳にすることがあった。中学生の、しかもブスな女にとって、「ゲイへの恋」は一番の安牌である。男性にしか興味がない男性に恋い焦がれるのは女子中学生の特権だと、漫画「主に泣いてます」内でもいわれていた。自分がブスでも、そもそも叶わない恋の前では、容姿を嘆かなくても良いからだ。

もはや、T先輩は私の恋のお相手として完璧な存在に思えた。どんなツテを使ったかは覚えてないが、T先輩の作文をゲットしたし、忍び込んだ家庭科室にあったT先輩の毛糸作品をバレない程度に切り取り、毛糸をゲットした。そしてそれを、キティちゃんの描かれた小さなボックスに入れて保存していた。14歳の私の、宝箱だった。

T先輩は1学年上の生徒だったから、否が応でもアレがくる。そう、卒業だ。私は今でもものすごいマイナス思考だが、当時も半年ぐらい前から先輩の卒業を思い、涙を流していた。当時、ストーカーであると同時にお笑いオタクでもあった私は、心友と見に行った某芸人の公開ラジオ収録でコーナーに出演することになり、「この場で叫びたいこと」を聞かれた際には、今はなきbaseよしもと内の公開収録スペースで「T先輩卒業しないでください!!!」と絶叫し、芸人を引かせてしまった。それぐらいの熱量で、私はT先輩の卒業を恐れていた。

いくら私が「卒業するな」の念を発していても、その時は必ずやってくる。卒業式の日はすぐきてしまった。私には、一つ決意していたことがあった。今は卒業式の日に、彼女に薔薇の花束を贈りそれを動画投稿サイトにアップするのが流行っているらしいが、そんな一過性のものではない。卒業式には、我が邪馬台国にいにしえから伝わるアレがある。

卒業式の日、対力石戦を迎えたジョー、まどかを何度でも救うと誓った暁美ほむら、武丸に対峙した時のマー坊のような面持ちで、私はグラウンドに舞い降りた。一連の行事が終わり、全学年が自由に歓談していい時間。私は野生動物のような勘の良さでT先輩を探しだし、まさに猪突猛進、猪の如く突っ走っていった。当時の私の体格は160cm60kgほどだったので、猪であればざっと10人前のボタン鍋が拵えられる立派な猪だ。しかし、私は理知を持ったヒューマン。逃げられる前に、T先輩の胸ぐらをガッと掴んだ。

「第2ボタンください!!!!くれるまで離しません!!!」私の大絶叫は、T先輩はおろか、周囲の3年生にまで響き渡った。恐れ慄くT先輩、ヤンキー漫画で「喧嘩は目を逸らした方の負け」と学んだことから、T先輩の目をガッと見つめる私(ケンカの話だったの?)、この異様な光景に「面白いもの見つけたぞ」と目を輝かせる3年生たち。

「オラーー!!T、あげたれよーー!!(関西弁講座:おーい!譲渡してあげてはどうですか?)」「ほんまにやめて!ほんまにやめて!あげるからつかまんとって!(関西弁講座:本当にやめてください。お渡ししますので、掴まないでください)」喜ぶ3年、泣くT先輩。あの数分は、ちょっとした生き地獄だったと記憶しているが、私は無事(?)愛しい彼の第2ボタンをゲットした。この瞬間が、私のイケてない中学3年間で、間違い無く一番達成感があった瞬間だったし、私がT先輩と言葉を交わした唯一の時間だった。私の宝箱には、新しくT先輩の第2ボタンが加わった。

あれから16年の時が流れ、私はおばさんになった。あの時のようなガッツや度胸は、今やどこにもなくなってしまった。それでも、出身中学の近くを通るたび、あの時の甘酸っぱい記憶(私にとっては)を思い出す。「本当に欲しいものがあるのなら、胸ぐらぐらい掴んでもいいのかな」今でも少し思うが、今後男性の胸ぐらを掴んで恫喝するようなパッションあふれるイベントが私にまた起こるかは分からない。今もし、あの第2ボタンがまだ手元にあったなら、私はもう少し勇気をもった大人になれていたかもしれないと悔やむこともある。ちなみに、今だに好きな人の一部を食べてしまう癖は治らない。「三つ子の魂百まで」何度も聞いたことわざを微笑ましく思いながらも、また今度男性の胸ぐらを掴んで恫喝するその日まで、私は私のままで生きようと思う。

 

 

14歳。あだ名はストーカー❶

今までこのブログの記事を読んでくださった方にはバレていると思うが、私は「いい話っぽいオチ」で文末をくくるのが好きだ。これまで、一応仕事として文章を書いたりなんやらしてきたが、初めて編集業に身を置いた編集プロダクションでは「ロマンチックな文書くな(笑)」とからかわれたし、前職の制作会社勤務時代も、担当していた情報サイトの文調を同僚にからかわれた。私がロマンチストなのはライティングに限ったことではなく、元々の素質がロマンチストなのだから、いくら揶揄されても治るものでもないのだ。私はロマンチストなヤリマンという、対極の性質を身一杯に詰めた、自他共に認めるアンバランスな人間だ。

しかし、今回書く話はどう捏造しようが、とうていロマンチックなオチ(通称「ロマンス落とし」)で終われそうにない。でも、アンバランスなことに、私のロマンチスト具合は一番伝わるブログ記事になると思う。私は、中学2年生の思春期真っ只中の頃、ピッカピカのストーカー1年生でもあった。

私の初恋は小学6年生の頃。肥満児だった私の体型をからかってはくるけれど、実は性根の優しい、ニキビだらけの男の子が好きだった。周りの女子は小学校低学年で「好きな人がどうちゃら」と騒いでいたのを思うと、私はませるのが遅い子供だった。その恋は特段進展も事件もなく終わったが、次に好きになった人が問題だった。T先輩は1学年上の中学3年生。恐らく、イケてないグループに属する色の白い男子だった。

とにかく、T先輩の顔が好きだった。そして、自分もまたイケてないカーストの女子だった私は、T先輩の「隠れた原石」ぶりも好きになった。伝え聞いたところによるとT先輩は、3年生の間では「実はTもかっこよくない?」「いや、よく見たらケミストリーの堂珍と草食動物を足して2で割ったみたいな顔してる」と噂されていたらしい。これだけだと「シマウマに似てるってこと?どこが原石?」と思われそうだが、そういうところも好きな人なら素敵に見えた。でも、私は太っていて、中島美嘉のつもりで後ろ髪を伸ばしていたら「◯◯ちゃんって、オウム真●教の教祖に似てるよね」と言われていた「イケてない」女子だ。ていうか、悪口のレベルから思うに軽くいじめられてたのではないだろうか。あいつら…ポアすんぞ…。

私がイケてるカーストの、夏休みに大学生と初体験も済ませてしまうようなJCだったなら、誰かを介してT先輩と遊びに行ったり、キスをしたり、穴に棒を入れたり出したり、そういうエッチなラジバンダリに勤しめたかもしれないが、オウ●真理教の他には山●達郎にも似てると言われていた私には、正攻法の恋愛なんてとてもじゃないが無理だった。歌唱力も教祖力もない普通のブスに、恋愛なんておこがましいと私は信じ込んでいた。

話は変わるが、私の「人を好きになる力」はすごい。BLEACHでいったら藍染惣右介ぐらいの強さに匹敵する。しかも、めちゃくちゃすぐ恋の斬魄刀卍解してしまう。作中では卍解を披露しなかった、オリジナルの愛染を超える強さを持つ。異常なまでに惚れっぽく、それだけならいいが、付き合うことになったらとんでもないことになる。具体例を出すのは憚られるので例えでいうと、私は好きな人の鼻くそならそれだけでごはんが2杯食べられるし、朝ごはんは好きな人の唾液ジュースでいいし、最終的には好きな人と小指を切り取り合い縫合しあい、交換したい。結婚云々の話まで男性との交際が進んだことはないが、多分「結婚指輪っていうか、結婚指くれよ」っていうと思う。まともな男性相手なら成田離婚間違いなしである。

こういった性質は、後天的なものあるかもしれないが、どうやら私の場合は先天的なものみたいだ。中学の頃から私は、ヤバイ恋のパワーを卍解させていた。「正攻法の恋愛なんて、私にはおこがましい」と考えていた私は、まずT先輩の家を突き止めることから始めた。

「なんでだよ。そういう場合、普通は大人しく見つめてるだけの恋とかになるんだよ。意気揚々と好きな人の下校を尾けるなよ」と言いたいところだが、外見は山●達郎でも中身は乙女。好きな人のことを思うと、ジッとしてはいられなかった。時には曲がり角や、マンションとマンションの隙間に入り身を隠し、T先輩の家を突き止めた。指名手配犯ぐらいなりふり構わぬ身の隠し方である。そうして突き止めた先輩のマンションのオートロックを突破して中に入り、先輩の家のドアの前に座って30分ほどドアをうっとり眺めていたこともあった。(パンツ売りの話書いた時も思ったけど、これ、法に触れてない?時効とかある?ないの?フィクションだから!もう完全妄想なんですよ!通報しないでくださいね!?)

ドアはただの灰色な無機物だ。そんなことは分かっている。でも、このドアの一枚向こうで、T先輩が生活していると思うと、そのドアが鮮やかな虹色に見えた。完全にただのコンクリートなのだけど、私にとっては天国への扉に思えた。まあ、ここまでならギリギリ許される範囲の行動だと思うが(そうでもなかったらごめんなさい)私はさらに暴走した。

とある放課後は先輩の教室に忍び込み、置き勉している教科書から先輩の机を特定。彫刻刀で机を削って、食べた。いや「食べた」じゃないよ。お前はコアラか。気持ち悪さの極みだが、事実は事実だ。カッサカサの木の味がしたが、好きな人の一部が体内に取り込めた気がして嬉しかった。これ、江戸川乱歩のホラー小説かなんかですか?

またとある放課後は、家庭科準備室に忍び込み、先輩の毛糸手芸作品を見つけ、毛糸を1cmほど切り取り、食べた。だから「食べた」じゃないんだよ。お前はヤギか。先輩がたくさん触っていると思うと、毛糸は机より美味しかった。このような奇行を重ねていた私だが、縦笛を舐めたり、体操服を盗んだりはしなかった。「先輩には迷惑をかけないで、自分の欲求を満たす」上野公園でカップルの青姦を覗く、訓練された覗き屋おじさんのような自意識を持って私はストーカー行為に勤しんだ。14歳女子なのに。本来なら、エヴァンゲリオンに乗れる年齢なのに。私はエヴァではなく、日々自分の欲を暴走させていた。あと、私の出身中学の警備がゆるすぎるのも問題だと思う。

ストーカー行為を続けて半年経つ頃には、私が上の学年から「ストーカー」と呼ばれているだけではなく、私の心友が「ストーカーの友達」と呼ばれ出すほど、私の存在は他学年にも知れ渡っていた。