変じゃないブログ

なんかいろいろ。へんしゅうぎょう。ツイッターは@henjanaimon

精神病等に入院していたときの話❸

私はいまだに1日1箱タバコを吸う。完全に、惰性でスパスパ軽やかに、8ミリのメンソールタバコを愛飲している。私が通っていた大学というのは、「名前さえ書けば入学できる」と揶揄されるような学力しか誇らない女子大だったが、いわゆる「お嬢様大学」で、学び舎にはたくさんの育ちが良さそうなお嬢さんがいた。そのお嬢さんたちの一人に、喫煙について言われたことがある。「タバコを吸う人は、何かに依存していないといけない、心の弱い人なんだよ」と。

そのお嬢さんのご指摘通り、19歳の私は何かに依存しないと自我が保てないような人間だった。しかもその悪癖は改善されることなく、私は依存する対象を次々増やし、7年後には精神病棟にブチこまれる大人になっていた。

 

その女の子とは、本当にいつのまにか、きっかけも思い出せないぐらい自然に言葉を交わすようになっていた。半分が痴呆症の高齢者。あとは、一般的に「社会の落伍者」と言われてしまうような人たちだろう。なんらかの疾患を抱えた中年がほとんどの病院の中で、私と彼女は珍しい「20代の女性患者」だった。受付に申告しないと借りられないライターを貸してあげただとか、珍しい洋モクを愛飲していた彼女に声をかけただとか、些細なきっかけで、性別と年齢を共有していた私と彼女は世間話を交わす仲になった。

といっても、初めてこの病院に入院する私と違い、彼女には何人か、病院内に「顔見知り」がいるようだった。この病院では朝昼夕の食事を、患者全員が揃って大きなロビーでとることがしきたりになっていて、学生の頃から友人がいなかった私は、学生時代と同じくひとり隅っこで食事をとっていた。彼女と知り合ってからは、彼女が声をかけてくれて何度か対面に座り食事をとったが、前述通り私は満足に食事ができなかったので、いつも早々に席を後にした。彼女と彼女の顔見知りの人たちは、そんな私を「無理しなくていいんだよ」といったような、やさしい顔で見つめてくれたのが嬉しかった。「こんな人たちしかいない所に入れられるなんて」病院内の非日常感に飲まれ、初めはそう感じた私だったが、彼女たちの存在に少し救われたような思いがした。『まともな人もいるんだ、まともな人でも、こういうところに入れられるんだ。』今にして思えば、私は嫌らしい選民意識を持っていたことがよくわかる。たくさんいる入院患者の中で、食事すら取れないのは私だけだったのに、私はまだ「自分は違う」と思い込んでいた。この自意識の過剰さが、私を陥れた要因の一つだったのに、私は何も理解しようとしていなかった。

 

ある日、病院内の喫煙所で彼女と鉢合わせた。この頃には、私たちはかなりの数の言葉を交わしていたので、挨拶も自然なものになっていた。そして彼女から、あと数週間で退院する旨の知らせを受けた。「自分は他の患者とは違う」と思い込んでいた私は、なんの疑いもなく彼女に「よかったね〜!」と声をかけた。彼女の顔は、みるみる曇り、小さく動く口から「よくないかな」と、呟くような言葉が聞こえた。いつも明るく、たまに親への憎しみを述べる時以外は陽気に見える彼女が、初めて見せたとても暗い顔だった。

「ま、出てもまたすぐ戻ってくるし!いつもそうだから。外で暮らすとかありえないから!」そう明るく言う彼女は、言葉以外はとても病んでいるようには見えなかった。

 

私は、この病院の中で食事が取れなかったわけではない。アルコールを断った後、胃のこむら返りは徐々に収まり、食べようと思えば普通に食事をすることができた。でも、そうしなかった。もちろん食べたくない日もあったが、食べられないふりをして、食事を回避した日も多くあった。職員の手前、数口食事をとった日はすぐにトイレに向かい、自ら口に指を入れ胃の中のものをすべて嘔吐した。

死にたかった。私はあの時、どうしても死にたかった。病院に入れられたのは予測外だったが、本当は食事を回避しアルコールだけを飲み続け、死ぬつもりだった。こんな状態になっても足繁く見舞いに来てくれる両親を悲しませないため、首吊りや飛び降りなど、「自殺」以外の判決が下されない方法は避けたかった。だから、私は食事を拒み続けた。職員に隠れ、両親に隠れ、私は食べたものを吐き続けていた。

私の計画は完璧だった。だからこそ、今足元もおぼつかなくなり、体がどんどん弱ってきている。このままいくと、私は死ねる。そう、確信していた。

 

これも、私の嫌な選民意識の一つだったと思う。私は、選択して今の自分を作った。ヨボヨボで生気がなくて、まともに歩けず、食事も取れない自分を。そういう自意識があった。だからこそ、彼女の屈託のない笑顔が胸に響いた。この子はきっと、何もかもを諦めている。生きることも、死ぬことも。彼女だけではない。他の人たちも何にも抗うことなく、静かに「この病院にいる自分」を受け入れているのだ。「死ぬこと」とはいえ、何かに向かって執念を燃やす私と、今あることの全てを静かに受け入れている彼らとでは、大きな隔たりがあった。入院当初から、私が感じていた違和感の正体はそれだった。今まで何度精神が病んだか分からない。やっと今、「死」へとうまく歩けていけてる実感がある。だからこそ、同じ「精神病」とされているのに、私のように昂りも荒ぶりもしない彼らに、違和感は初めからあった。その日、彼女の明るい顔に、私は答えを見出してしまった。

 

それから数日後、彼女の退院と時を同じくして、私も病院を出ることになった。一時帰宅先の自宅で心臓発作を起こし、意識不明となった私は、緊急搬送で別病院のICUに運ばれたからだった。私はその病院のICUで10日間の昏睡のすえ意識を取り戻し、そちらの病院で治療を受けることになった。透析やリハビリなど、施設の整った病院でしか受けられない治療が私の身体には必要だった。手厚い看護を受け、心臓発作から2ヶ月後、私は久々に病院外の世界に戻ることになったのだった。

 

その後、私は自殺を企てることなく、社会復帰を果たした。普通の顔をして暮らし、普通の顔をして面接を受け、普通の顔をして合格通知を受け取り、普通の顔をして会社に通勤した。恐らく私の姿を見て、精神病棟への入院歴に気付く人など誰もいなかったと思う。幸いなことに、私は仕事ができない方ではなかったため、ある程度の評価を受けることもできた。私は、完全に「普通の人」に成ることができてしまった。私には、しょうもない虚栄心も、くだらないプライドも、それを踏みつけられたくない競争心も、すべての煩悩があった。だからこそ、普通のくだらない人間に成ることが叶ったのだ。

 

カッコーの巣の上で」に出てきたマクマーフィーは、血気が盛んで野蛮で無礼で、とんでもない荒くれ者だった。だからこそ、病院の中で仲間を焚きつけることができたし、厄介者と疎まれ、最後には人間らしさの全てを切除されてしまった。

完全に煩悩の世界の住人となった今、私はたまに彼女のことを思い出す。とても「ここ」以外では生きられないと、軽く笑っていた彼女。囲碁か将棋をして日が落ちるのを待つ患者たち。誰も、見舞いに姿を見せない彼らのことを。

カトリックにおいて、人は七つの大罪を抱えて生きているとされている。傲慢さがなければ自分に自信は持てないし、嫉妬の気持ちがなければ能力を伸ばすこともできない。憤怒しないことには悲しみに心が押し潰されてしまうし、少しの怠惰がないと、頑張りは長く続かない。強欲さがなければ欲しいものへの活力も失ってしまう。いうならば、現代の食事はすべてが暴食だ。私には、それが罪だとは到底思えない。

すべての罪を前頭葉ごと、マクマーフィーのように奪い取られなかった私は恥ずべき存在なのかもしれない。それでも私は、自分に優しく笑いかけてくれた彼女たちが、すべての罪を課せられ汚い下界に落とされてくれれば、と思う。一緒に罪を背負って、自分の行く道を決めればいい。誰も見舞いに来てくれない病院に、マクマーフィーが来てくれるのはフィクションの話だ。彼女たちの意思を伺える術はもうないが、私はまた次に死ぬ時まで、恥と罪にまみれた自分から、目を逸らすのはやめにしようと決めている。

精神病棟に入院していたときの話❷

この記事を読んでくださっている方の中で、「カッコーの巣の上で」という古いアメリカ映画をご存知の方はどれくらいいるのだろうか。

刑務所収容を逃れるため、詐病を使い精神病院送りとなった荒くれ者の主人公マクマーフィーが、精神病院内でも荒くれまくり、古い体勢や独裁的な看護師長に反抗し続け、そんなマクマーフィーの人間らしさに、周りの入院患者たちも徐々に人間らしさを取り戻していくハートフルなヒューマンドラマだが、この映画を視聴した中学生当時、私はその救いのないラストに絶望した。

ある日、マクマーフィーは女友達を精神病院内に招き入れ、いつものごとく荒くれまくり、どんちゃん騒ぎを始める。マクマーフィーには可愛がっているビリーという入院患者がいたのだが、どうやら、ビリーが女友達の一人を好きになってしまったらしい。マクマーフィーは女友達にビリーの筆下ろしを頼み、めでたくビリーはDT卒業となるが、その事が看護師長に知れ、看護師長は激怒。ビリーの母親にその夜の出来事を報告してしまい、マザコン(母親は毒親っぽかった記憶がある)のビリーは自害してしまう。マクマーフィーはビリーの死に怒り狂い、師長を殺そうとするが失敗。言わずと知れたヤバイ精神疾患治療法の「ロボトミー手術」(前頭葉に穴を開けるどう考えてもヤバイ施術だが、1950年代まで現実に横行していた)を受けさせられ、マクマーフィーは白痴となり映画は終わる。

 

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「カッコーの巣の上に」は精神病患者、ひいては心身に何らかの疾患を持つ病人たちの人権を問う映画だったと記憶しているが、よく笑いよく怒るマクマーフィーが完全に人ならざる「もの」にされてしまうラストに、私は狼狽した。またタチの悪いことに、これまでのハートフルなストーリーがすべて吹き飛ぶくらい、役者の演技が完璧だった。もともとの視聴きっかけは、当時ロボトミー手術に興味があったので観てみるかぐらいのものだったが、正気を失った人間の恐ろしさのみが私の頭に植え付けられてしまった。

 

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私が送られた病院には、マクマーフィーのような正気を保った荒くれ者はいなかったが、その代わりにラストシーンのマクマーフィーのような患者さんはたくさんいた。幼い子供でも、手足の自由が効かない老人でもないのに、一人で風呂にも入れない中年女性。ロビーで一日中放心している若い男性。一見普通に見えて、スーツを着ていれば働き盛りのサラリーマンに見えるような男性たちでも、彼らの会話する様子を覗き見ると、どこか表情に締まりがなく、弛緩しきっているように見えた。

病院で生活しているうちに分かったことだが、この病院の中は完全に俗世と隔離された異世界だった。リスク管理のために、自分の病室にはお菓子の類や簡単な雑貨類しか持ち込むことができなかったし、一般の病院のように治療のためのリハビリなどが行われている様子もなかった。お風呂は広めの浴場が病院内にあり、予約をすれば週に2〜3回、入浴することができた。1日の間で「時間」という概念を思い出すのは、原則全員が長テーブルに揃って摂る3回の食事のみで、その他の時間は各々が自由に生活できる。私は身体が弱り切っていたため、1Fにある売店まで歩くことも難しく、ほぼ1日中ベッドで横になっていたが、比較的元気な患者たちは将棋や囲碁を打ち1日が過ぎるのを待っていた。あまり知られていないことだが、痴呆症の患者も精神科にかかるので、病院内には老人もたくさんいた。痴呆症というのは、罹患すれば物忘れだけでなく人間性も大きく変化する厄介な病気で、老人の何人かは廊下で怒号をあげ喧嘩をしていた。「ストリートファイターかよ」と思うほど激しいバトルが繰り広げられていたこともある。彼らはケンでもリュウでもビアンカでもないので、喧嘩が始まると拡張ピアスをつけた若い職員が駆けつけ、彼らを羽交い締めにして喧嘩を止めた。そんな異常な「事案」も、病院内では日常だ。ビビリまくっている私を尻目に、他の入院患者たちは「ま〜た◯◯のジジイだよ」と言わんばかりに、弛緩しきったヘラヘラ笑いを浮かべていた。

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そんな病院内でも、おそらく私は厄介な患者だったと思う。他の患者のように廊下でストリートファイトもせず、夜中に隣の隣の部屋まで響き渡る奇声を上げることもなかったが、とにかく食事を摂れない私に、職員たちは面倒くさそうな顔で対処してくれた。食べたくても食べられない。胃がびくつき、すぐに戻してしまうのだ。もうこの頃には酒も完全に断っていたが、簡単なゼリーぐらいしか満足に食べられない私に、職員は点滴を打ってくれようとした。しかし、職員の腕がないのか私の血管が細いのか(おそらく両方)9回注射を失敗された挙句に「今日はもうやめておこうね」などと言われていた。「『もう』ってなんだよ。点滴に『もう』とかないだろ普通」頭では分かっていたが、もうツッコミの気力も残っていなかった私は、物も言わず食事も摂らず、ベッドの上で1日中寝て過ごすようになった。完全なる生きるしかばねと化していたが、家族が面会に来てくれる日だけ、私は人間に戻ることができた。

家族は私を、完全に慈しみの目で見ていた。弱り切り、まともに歩くこともできない娘と対峙するのは、さぞ胸が痛んだだろう。揃って嘘をつくのが下手な両親なので、表情にはいつも悲しみの色が浮かんでいたが、それでも私を元気付けようと、頻繁に面会に訪れ他愛もない話をしてくれた。駅前に安くて美味しい食堂を見つけたこと、最近ではその食堂のおかみさんが、少しお代をまけてくれること、母方の祖母の家に遊びにいったこと、外はもう冬が明けたこと。病室での会話は迷惑になるので、それらの話を私は受付の長椅子に横たわったまま聞き続けた。正直、座り続けることも出来ない身体で両親の話を聞くのが辛い日もあったが、「せめて少しは元気なふりをしよう」という気概だけが、私を人間に保ってくれていたと思う。一度、父が気分転換に歩いて3分のコンビニに連れ出そうとしてくれたが、1分歩いただけで膝から崩れ落ちたことがあった。初めから、コンビニになんて行けないことは分かっていたが、私が笑顔で喜ぶことが親の救いになればと無理をした。今思うと、あの頃の私にはまだ正気だけは残っていたが、次の日死んでしまってもおかしくないくらい身体はボロボロだった。事実、その1ヶ月後私は心肺停止に陥ることとなる。

 

私の心臓が止まるまでの間、荒んだ入院生活の中で、私にも「知り合い」と呼べる入院患者ができた。これも普通の病院なら考えられないことではあるが、精神病院には喫煙スペースが設けられていた。しかも、来訪者用などではなく、病室が集う階と同階に、まあまあ大きめのスペースが確保されていた。理由はわからないが、あまり我慢を強いると患者の調子が悪くなってしまうからだろう。もちろん、ライターは病室には持ち込めないので、受付で名前を告げ、ライターを借り、スペースに向かう。その喫煙スペースで、よく顔を合わせる同世代の女の子がいた。変な洋モクを吸っている、小太りでメガネの女の子だった。珍しい同世代の入院患者だった私たちは、いつからか二言三言言葉を交わすようになった。話を聞くと、彼女は何度も繰り返し、この病院に入院しているらしかった。

精神病棟に入院していたときの話❶

2016年末、私はボロボロだった。メンタルではなく、体の話だ。

とにかく、何を食べても即座に戻してしまう。アルコール中毒だったので、「お酒を飲まないとダメになってしまう」という強迫観念に取り憑かれ酒は飲んでいたものの、最後にはその酒もマーライオンが如く口から噴出するようになった。最後には、水やお粥を口にしても吐く、人間スプラッシュマウンテンと化していた。

「絶対に何かがおかしい」まだ普通に二足歩行はできていた頃、私は一人で近所の内科を訪れた。私の血液検査の数値を見た医者は「あなたはうちではなく、精神科医に診察してもらってください」と、文字通りさじを投げた。肝臓の不調を測るγ-GTPという数値が、基準値の20倍を示していたからだ。

私はいい歳ぶっこいて今でも実家で暮らしているので、とうとう歩くのもおぼつかなくなった私を見兼ねた両親は、私を連れて精神科病院を訪れた。その精神科医の定期診察を受けていたのは当時からもう1年以上前のことだったが、親も精神的に参っていて藁をも掴む気持ちだったのだろう。青い顔をした両親に、医者は「重度の拒食症だろう。入院してもらうことになる」と告げた。

後日、私は家から車で1時間かかる大きな精神病棟で、違う医師の診察を受けることとなった。頭も朦朧としていてあまり覚えていないが、紹介状があった為かその場で即日の入院が決まった覚えがある。

病院の受付時点で、その病院のただならぬ雰囲気は感じ取れた。受付前の待合椅子で、大人なのにだらしなく横になる人。診察を待っているのかいないのか、人ならざる目をして、何かをぶつぶつ呟く老人。うまい例えが見つからないが、地獄というものがあるのならこんな感じなんだろうな、と受付時点で察することができる有様だった。

「あなたの病室の横には桜の樹があるから、春には病室から綺麗な桜が見れますよ」そう医者に告げられ、弱った頭で私は(いや、桜の季節までこんなとこおらなあかんのかい)と思った。病室のある階にいくと、襟ぐりがグダングダンになった薄い白Tシャツ1枚で惚けている男性、看護師さんに付き添われながら意味不明なうわ言を呟き歩く女性など、受付で見た人たちより猛者が病院内をウロウロしていた。でも、私もここに入れられた限り、健常者より彼らにぐっと近い人間なんだと、失礼を承知で胸が痛む思いがした。いったい、私はいつからこうなってしまったんだろう。

2年前の2014年。私は横浜市に住んでいた。2012年に故郷である大阪に戻って以来、夢にまで見た東京(横浜ではあるが)での再スタートを始めていた。2013年より大阪で交際していた、関東から赴任してきた男性が関東に戻るので、私も連れて同棲するかたちで、横浜で生活していた。今思うと彼がとんでもないモラル・ハラスメント男で、私は「◯◯は社会性がないんだから、すぐ鬱になるんだから、働きになんて出てはいけないよ」と告げられ、家で専業主婦のようなことをしていた。当時から家事は好きだったが、生活費は彼が与えてくれるお金のみで、私は食費や必要経費を彼に催促するのがとても嫌だった。自分はずっと家にいるのに、「お金が足りないです、寄越しな」と言えるような図太さは私にはなかったのだ。彼だけを責めるつもりはないが、そんな生活の中で私は病みに病み、ついに彼に父親を呼び出され父親の目の前で別れ話を強いられたあげく、「娘さんを連れて帰ってください」と告げられた。いや、やっぱり34歳の男が24歳の女に「ずっと家にいろ」と強いた挙句に、別れ話に女の親を呼び出すのはおかしいぞ。彼だけを責めます。このファッキンキチガイが!大体な、「入院して」って言ってきた精神科医だって、元々はお前が私を階段から落としてきたりで病んで通いだしたん(5000文字くらい愚痴を書きそうなので割愛する)

モラル・ハラスメント男がキチガイだったことは置いといて、無理やり父親に自分を押し付けられ、次の日には新幹線に詰め込まれていた私は、その時からキチガイへの道を歩み始めた。その後に交際を始めた男性が、私に隠れて『奴隷』と称する女を何人か抱えていて、更に裏で乱交パーティを主催。パーティで同性愛者でもないのに男とセックスするような男性だったのも、私のキチガイ化に拍車をかけた。(彼のことは一切好きではなかったので泳がせていたが、ある時喧嘩になり乱交パーティの件を問い詰めると「ごめん、映画『ソドムの市』みたいなことがしたかった。京橋の立ち飲み屋で隣のじじいに『ニィちゃん、デカイ女好きか?』って声かけられたのがきっかけ」と白状した。ちなみに、私はそのじじいとDQN化したマツコデラックスみたいな女が全裸でツーショットピースしている写真も知っていた。京橋の立ち飲み屋でなにが『ソドムの市』じゃピエル・パオロ・パゾリーニ監督に謝れ)

 

「私がデブでブスで、その上何にもできないから、こういう人ばかり寄ってくるんだ。せめて、デブをやめよう。というよりもう、私でいることをやめたい」モラ男に追い出された私は、酒を浴びるほど飲んで体重が15キロほど増加していた。今思うと何らかの身体疾患をもつもの特有の異様な太りかたをしていたから、食事制限をしても何をしても体重が減らなかった。醜くなり果てた自分の体も、私の頭を悩ませる一因だった。あらゆる悩みに苦しむのも疲れた私は、決意のもとに、ある時から食事を抜き、ひたすら酒を飲むようになってしまった。私の、緩やかな自殺はここから始まったのだ。

小さな方舟

私は大学3年生になる直前、唐突に大学を中退しなければいけなくなった。「なんか計算したら、これから学費出せないっぽいわ」という割とトンデモな家庭の事情が理由だった。

21歳の私は、ある日いきなり「学生」から「フリーター」になった。

当時私は、大学に通いつつ小売店でのバイトと、バニーガール姿でのお給仕バイトを行なっていた。フリーターになったからには、今日からこの2つが「本業」だ。「あの人って、ちょっと変わってるよね(笑)」と昔から各所で爪弾きにあっていた私のことを受入れてくれる、どちらも居心地の良い職場だったが、金銭的な面や社会的な面で私は不安を抱いていた。「こんなその日暮らしの働き方がいつまで持つのか」本来であれば、大学に通いながら就活をし、円満に退職するつもりであった2つのバイト先を退職し、私は地元大阪に帰った。22歳になる数日前のことだった。

地元に帰った私は、とある新聞社の校正部で働くことになった。本当にたまたま求人情報誌で見かけただけの仕事だったが、「そういえば編集の仕事って面白そうだな」と軽い気持ちで応募し、とんとん拍子で話が進んだ。応募してから1ヶ月もたたないうちに、私は契約社員として勤務することとなった。

同世代の友人たちが立派に大学を卒業し、就職先で働き始めていた頃、予期せず大学を中退することとなった私は焦っていた。大学に通い、周りに合わせて就活し、就職する。安定したレールの上を歩くはずだった人生計画が、突然に狂ってしまったからだった。それでもなんとか、契約社員の職を得ることができた。「とりあえずは安泰かな」と胸を撫で下ろす気持ちだったが、それが甘い考えだったことを、私はすぐ知ることになる。

 

今はどうか知らないが、私が勤務していた約8年前まで、新聞社は恐ろしく体育会系の職場だった。男性社員の割合が圧倒的に多く、毎日発行されるという媒体の性質上、常にスピード感が求められる環境だった。「校正部」は原稿を書く場所でなく、原稿のミスを見つけることに特化した部署だ。「毎日新聞のミスを探して、新聞社に電話をかけることを趣味にしてる人もいるから、絶対見逃しがないようにね」勤務初期に私が先輩に言われた言葉だ。世の中に色んなやべぇやつがいることはなんとなく知っていたが、そんなやつがいるとは。私は唖然としたが、先輩たちは皆その事を分かっているのか、毎日目を皿にして真面目に原稿をチェックしていた。

勤務日初日に、共同通信社が発行している「記者ハンドブック」を渡され、それを基準に間違った表記がないか原稿を読みまくり誤表記を探すのが、校正部の主な仕事だ。昼勤と夜勤に分かれ、朝刊と夕刊をチェックし、ミスがあれば各部署まで出向き、訂正を求める。スポーツ部の人たちは特に体育会系の色が強く、「校正部のものですが」と声をかけただけで、タバコの匂いがプンプンする男性社員に露骨に嫌な顔をされた。「このことわざは本来の意味と少しズレるので、別の表現をお願いします」「この漢字は常用漢字ではないので、改変をお願いします」各部署の人たちに訂正を求め、訂正原稿をチェックし、文脈におかしなところはないか再度チェックし直す。地味な仕事だが、仕事自体は「人の揚げ足を取るのが大好き!」な私にあっていたようだった。しかし、校正部の人たちとは決定的にソリが合わなかった。

私の指導係に、当時の私より10歳くらい年上の女性社員がいた。お世辞にも見目麗しい容姿とはいえない、年老いたロバが2回くらい軽自動車に轢かれたような顔の女の人だった。その人は、とにかく私に冷たかった。毎日露骨にうんざりした顔で指導されていたが、ある日突然その女性ともう1人の女性に、社員食堂に呼び出された。

「あのさ、あなたが入ってくる前に校正部でちょっと揉め事があったんだよね」女性2人がいうには、私が入社する以前に校正部にいた若い女性が、校正部の中年社員をたぶらかし、校閲だけが仕事の校正部にいながら、自分の書いた原稿を誌面に掲載するよう中年社員に依頼し、実際に記事が掲載されてしまい大騒動になったそうだった。今考えると荒唐無稽な作り話であることがすぐわかるが、社会経験もなくまだ幼かった私はその作り話を信じ込んでしまった。「だからさ、あなたが悪いわけじゃないけど、校正部は今若い女の子を警戒してるんだよね。あなたは普通の2倍も3倍も頑張らなきゃいけないわけ」ロバは私がプレッシャーに思う言葉を選んで話しているようだった。今の私なら「は?じゃ給料2倍3倍になるんですか?ていうかあんたも契約社員だよね?私に偉そうに説教たれる身分じゃねーだろ」と思えるところだが(それもどうかと思うが)当時の私は完全に震え上がってしまった。

次の日からの勤務は、気が気じゃなかった。部全体が常に自分を見張り、警戒されているように感じた。優しい先輩も数人いたが、少しのミスも許されないような気がして、勤務中は常に胃が痛かった。喫煙所で他の部署のおじさんが気さくに話しかけてくれる時間だけが救いだったが、今思うとこれもロバの神経を逆撫でしていたようだった。新聞社は圧倒的に男性社員が多かったので、別に可愛いわけでもない私でも「なんか新しく若い女の子が入ってきたよ」というだけで声をかけてもらえた。今の私なら「うるせーくやしかったらお前もおじさんにチヤホヤされるようになってみろや、轢かれロバ女!」といえるが、他の部署の人と仲良く話す私を見るロバの鋭い目にも、私は萎縮していた。時には私のロッカーの中に、ロバから「今日の私さんの良くなかったところ」がまとめられた手紙が入れられていたりもした。つのだじろう恐怖新聞よろしく、その手紙を読むと自分の寿命が縮むような思いがした。

異常な環境に耐えられなくなった私は、家にあった一升瓶で自分の足を殴りつけ「捻挫しました」といって欠勤したり、精神的なものからくる腹痛で会社に行けなくなったりした。限界を感じ、4ヶ月目を迎える前に私は新聞社を辞めることにした。辞めたい旨を告げた際、部長は「あの女はそういうことをしそうだな」と話した後、「君も、派手な格好で勤務したりしてたんじゃないの?」と言い放った。私は毎日白いTシャツにジーパンという、現代版山下清画伯のような格好で通勤していたのに…。この時初めて「ああ、辞めるって決めてよかったな」と私は安堵のようなものを感じた。そしてやはり、私が入社する前の揉め事云々の話は、すべてロバの創作だったことも判明した。「やべえやつ」は、毎日新聞のミスを見つけて新聞社に電話をかけることを趣味にする輩だけでなく、社内にも存在していたのだ。

あれから8年の時がたった。私は今、どこの会社にも在籍していない。自分では「ちょっと忙しい無職」を自称している。「ちょっと忙しい」というのは、数社から仕事を委託契約で回してもらい、かろうじて少しは働けているからだ。

今の私は、編集と校正、ライティングを生業として生活している。あれだけ嫌でたまらなかった校正部の勤務経験だが、異常な環境下にいたからこそ、私は4ヶ月間毎日とてつもない集中力をもって仕事をした。まるで学生の宿題のように、給与も発生しないのに家に帰ってからも自主練をした。そのおかげか、新聞社を退社後入った編集プロダクションでは、毎日上司に怒られる日々の中で「校正だけはすごいできるじゃん」と褒めてもらえた。この上司はロバとはうって変わってとてもいい上司で、素っ気無い態度ながらも私に校正を任せてくれて、編集の基礎も叩き込んでくれた。そのおかげで、私は今でもショボいながらも編集の仕事ができている。

「校正」は地味な仕事だからか、あまりやりたがる人もいない完全裏方の仕事だ。そもそも、編集業が裏方の仕事なのに、その業務の中でもかなり陰の作業だと私は思っている。だからこそ、きちんと勉強してきた人も少なく、私ぐらいの能力でも校正の仕事を任せてもらえている。

新聞社を辞めた後、仕事面だけでなく、いろいろと辛いことが多かった。うつ病になったり、アルコール依存症になり、多臓器不全からの心肺停止を起こし、2ヶ月の入院を経験したりもした。私は今でもロバのことは許せないし、「街で見かけたら一発殴りてえ」とすら思っているが、同時に人生は経験の積み重ねで成り立っているということも、やっと理解できるようになった。私がロバに屈辱を感じさせられた日々も、今の私の仕事を構成する立派な一部だ。何かを恥じたり、悔いたりする必要はただの一つもないと今では思える。

旧約聖書「創世記」で、救世主ノアは方舟を作り、これにさまざまな生き物を乗せ地球上の沢山の生命を大洪水から救った。「会社」という小さな方舟の中で、幼く弱いカメだった私はロバに虐められ悲しい思いをしたが、長い人生を生きる上で大切なのは、その方舟の中でどう上手く生きるかではなく、ノアが救ったこの世界で地面に足をついて生きるため、その方舟を降りた後の自分の身の振り方を考えることだ。

いろいろな経験を経て今や凶暴なカミツキガメに成長してしまった気がしないでもない自分だが、もう小さな方舟はない。これからも、自分の身におこる経験の全てを生かして、働き続ける予感がしている。

転職nendo×はてなブログ 特別お題キャンペーン #しごとの思い出

転職nendo×はてなブログ 特別お題キャンペーン #しごとの思い出
by 株式会社Jizai「転職nendo」

パンツ(排泄物)売りの少女だった頃の話❹

Cさんは実際会うと、サラリーマンにしては明るめの茶髪をきれいに整え、今風なデザインのメガネをかけたサラリーマンだった。話し方も軽やかで、使う言葉も少しチャラいぐらいの男性だった。

「めっちゃ可愛いですね!」「久しぶり!今日も会えて嬉しい〜」「髪型変えたんだ!似合ってる」Cさんの口から出る言葉は、ごくごく普通の女慣れした男性が使う言葉で、今までろくに男性と会話したことがなかった私には少し気恥ずかしいほどだった。いつもニコニコしていて、別れ際には「今日もありがとね!」と、爽やかで優しい笑顔を見せてくれた。

Cさんに対し、私は2つの疑問を抱いていた。1つ目は「なんであんなに普通の、しかも若い男性が、女の下着なんて欲しがるんだろう…?」という疑問、2つ目は「あんなに爽やかな人なのに、なんでメールはこんなに暗いんだろう…?」という疑問だ。

Cさんから届くメールは、筋金入りのリストカッターだった私から見ても、異様に暗かった。「今日も憂鬱です」「仕事が辛いです」「僕の楽しみは、◯◯さんに会うことしかないんです」◯◯さんというのは、掲示板で使っていた私の偽名だった。なぜ、あんなに爽やかで、しかも「おじさん」というのは憚られる若い男性が、偽名しか知らないような関係の女に、ありったけの心情を吐露するのか。その気持ちがまったく理解できなかった。

Cさんはすこし年配に見積もっても、30代前半。見ようによっては20代に見えた。それくらいの男性は、オトナの女性とバーでデートしたり、毎日同僚と酒を酌み交わしているものではないのだろうか。ましてや、Cさんなんて人気者だろう。毎日トイレで弁当を食べている私なんかより、ずっとずっと友達もいるだろう。

その頃の私は、大人にはなんの悩みもないものだと思っていた。やりたい仕事をして、好きな人と恋愛をしてセックスして結婚して、子宝に恵まれたりなんかして。毎日リストカットを繰り返す自分が背負っているような、くだらない悩みなんて一切ないんだと信じ込んでいた。だから、Cさんが毎日とても辛そうなことが解せなかったし、放っておけなかった。

妖怪ウンコ喰いおじさんにもホスピタリティをもって接していたぐらいだ。私は毎日毎日Cさんを励ました。

「そんなこと言わないでください(;_;)」「またエクステをつけました🎵前に褒めてくださって嬉しかったので💕」「Cさんは優しい人ですよ💦」今思うと、10代の拙い気遣いだったと思うが、元気になってほしい一心で、私は必死にメールを書いた。たまに学校に行っても、授業中なんて関係ない。落ち込んでいたらなるべく早く返信をした。パンツの売買で繋がった男女の範疇を超えるくらい頻繁にやりとりをしたが、Cさんは律儀にパンツも買い続けてくれた。

ふと、「Cさんは本当はパンツなんか欲しくないんじゃないのか?」という疑問が私の脳裏をよぎった。もし、Cさんが排泄物や生理パンツを欲しがっていたなら「それはそれ、これはこれの性欲なんだな!OKOK!カマン!」と思うことができたが、Cさんはいつもノーマルな1日使用のパンツを求めてきた。もしかして、パンツは口実で、ただ私に会いたいだけなのかもしれない。

そんな考えが浮かんだが、さすがにCさんには言い出せなかった。小・中学校と男子に外見を貶され続けた私は、たくさんの男の人と売買を交わしても、まだ少し男の人が怖かった。

嫌なことをたくさん言われた。机を投げられたこともあった。しかも思春期を迎えると、男子は暴力性に加えとんでもない性欲も持つらしい。ほぼ女子高な高校に進学した私は、自分を馬鹿にしてきた男子とエロ漫画の登場人物しか「男」のサンプルを知らなかった。どうしても男性を信用しきれなかったのだ。

私はCさんからお金をもらう罪悪感を、丁寧にメールを返すことで拭おうとしていた。道端でスーツの男性とJKが長々会話しているとリスキーなのは、他の男性もCさんも変わらない。いつも会話は短めに切り上げた。その代わり、頻繁に長い長い長文メールをCさんに送った。Cさんから届く、少し元気になったようなメールが、私の唯一の免罪符だった。

それから月日が流れ、私は高校を卒業し予備校生になった。大阪の予備校に通っていたが、私が目指していたのは東京の美大だった。美大は、受ける大学により受験内容が全然違う。志望校でただ一人、東京の大学を志望していた私は、大阪の予備校では持て余されていた。

東京の予備校に通いたい。それに、もう自分はJKではない。「潮時なのかも」と思った。まだ東京に行く予定はないが父が単身赴任をしているため、私が言えばすぐ東京には移住できる。私は、Cさんを含めた常連みんなに、メールを出した。「そろそろ上京するので、もうやりとりできません」と。(ちなみに前回のブログ記事で、まるで私は初めて出来た彼氏の元にいくため上京したかのように書いたが、高校生の頃から東京の予備校に通いたかったし、Cさんとやり取りしていたのは彼氏ができる前だ)

みんな、「残念だけど応援してます」といったような返信をくれた。私の常連さんたちは、JKからパンツを買っていたけど、多分そのパンツでオナニーしていたけど、みんな良い人たちだったと思う。みんなからの返信で少しセンチメントな気持ちになっていた頃、Cさんからも返信が来た。その内容に私は驚いた。

 

「◯◯さん、今まで本当にありがとう。気づいてたと思うけど、僕には妻子がいます。妻子がいるのに、僕はもうすぐ会社を辞めて、医療業界で働く資格を取るために、学校に通い始める予定です。◯◯さん、最後にお願いがあります。思い出に学校で使うシャーペンを一本、送ってくれませんか?家には妻がいるので、この郵便局に送ってください」といった内容だった。

Cさんは若く見えたから、てっきり独身だと思っていたのに、妻どころか子供までいた。お父さんだったのだ。でも驚きより、Cさんが嫌っていた会社を辞めて、新しい夢に向かって歩もうとしていることへの喜びの方が強かった。シャーペンぐらいお安い御用だ。ブランド物の文房具なんて知らなかった私は、東急ハンズに赴き、一番おしゃれだと思ったシャーペンを買った。私も予備校でデッサン鉛筆に使っている、ステッドラー社の製図用シャーペンだ。「私も頑張るから、Cさんも頑張ってね」という想いを込めたチョイスだった。

後日「◯◯さんありがとう!嬉しいです、絶対大事に使います。シャーペンのお代金を振り込むから、口座番号を教えてください」と、Cさんからメールが届いた。私は今までのお礼や、Cさんにパンツを売り続けた罪悪感から、その申し出を断った。それで終わるはずだった。でも、Cさんは食い下がった。「それでは申し訳なさすぎます。絶対教えてください」いつもメールでは弱気なCさんにしては、語気の強いメールだった。私は渋々口座番号を教えた。

今思うとCさんは口座を見て初めて、私の本名を知ったのだ。そんなことすら、あの頃の私は気付かなかった。

 

私は来月、30歳になる。きっとあの頃のCさんと同じくらいの年齢だ。仕事は決してやりたい仕事だけできているわけじゃないし、好きな人にはふられまくってる。好きじゃない人とセックスして落ち込むことなんて日常茶飯事だし、結婚の予定もなければ、一生子供なんて産めないかもしれない。大人になっても、悩みは尽きないし、悩みのない大人なんてきっとただの一人もいない。今の私なら、Cさんの苦悩を分かってあげられるかもしれないと、よく思う。

結論から言うと、私の口座には70万近いお金が振り込まれていた。私が送ったシャーペンは1000円そこらの品物だ。すぐCさんに連絡し、こんなものは受け取れないと伝えた。Cさんは「東京はお金がかかるし、これが僕の精一杯のお礼です」と、頑なに自分の口座番号を教えてくれなかった。私には、あんなに強引に番号を聞いてきたくせに。結局志望校とは違う大学に通うことになった際、親が「単身赴任中の父と一緒に住まないなら、もう知らん」と初期費用などを出してくれなかったので、Cさんがくれたお金で私は家を借りた。家具を買った。それでもまだ余るほどの大金だった。おかげで大学に通えた私は、高校の頃の鬱屈とした日々とは正反対の、素晴らしい日々をおくれた。

きっとCさんは、あの時とても寂しくて、たまたま現れた包帯まみれの腕の私に同じものを感じてくれて、好きになってくれたんだと思う。あれから10年以上の時が流れて、私はダメな大人になった。27歳のときには心肺停止で緊急搬送され、ICUで治療を受けた。今は復活したけど、メンヘラはメンヘラだし、おまけにとてもヤリマンだ。

Cさんと会わなくなって、私はすぐ処女ではなくなった。いろんな男性とセックスをして、恋愛もした。本当に私を愛してくれた人もいた。だからこそ、あの時Cさんが私にくれたものは、ただのお金じゃなくて愛だったんだとよくわかる。私は、Cさんに何かを返せていたんだろうか。

仕事で医療系のパンフレットを見るたびに、私はCさんを思い出す。必死で普通の大人を装っていたけれど、ほんとは弱くて、とても優しかったCさん。夢は叶えたんだろうか。家族とはうまくやっているのだろうか。もう、年端もいかない女に、悩み相談なんてしなくても大丈夫になってるんだろうか。あのシャーペンを、今も持っているのだろうか。

色々なことを考えて、最後はいつも「やっぱりお茶ぐらいしておけばよかったな」と、少しだけ後悔する。

パンツ(排泄物)売りの少女だった頃の話❸

意外かもしれないが、排泄物はパンツより高価な値段で取引されていた。おそらく、需要に対して供給が少ないから、取引値が跳ね上がっていたんだろう。「需要と供給と売価のバランス」を、私はウンコで学んだ。「そんなことあるんだ」って感じではあるが、やはり座学だけでは知識は身につかない。それはJKビジネスの世界でも同じだった。

私がほかのJKたちの書き込みの見様見真似で設定した、なかなかの高額でも交渉に応じてくれた男性は、おそらく普通のサラリーマンだ。まとまった額のお金を、月に何度も自由にできる環境下にはいなかったのだろう。

はじめての待ち合わせの日、男性が手にしていたお弁当入れらしい手作りの巾着は、ファンシーな車のイラストが描かれていた。おそらく、奥さんが息子の分を作るついでに彼にも作ってあげたのだろう。「こんなの会社に持っていけねーよ」と文句を言うことなく、それを日常使いしてあげる旦那。とてもいい旦那ではないか。ただ彼は退勤後、JKからウンコを買い、深夜風呂場でウンコとセックスしていた。しかもその感想を、情緒たっぷりにまとめ、17歳の女に送りつけていた。

「人間の闇」といっても差し支えないな、と私は感じていた。

彼からの「買いたいのですが」メールはだいたい月に1〜2回、送られてきた。その都度、私は待ち合わせに出向き、ブツ(何回もいうが、ウンコ)を渡した。そして決まって深夜には夢小説が届く。最後の方は、ヒートアップが過ぎて文学性が増していたのが面白かった。あの時の文面を、なぜ残しておかなかったのだろうかと悔やまれる。歴史的な文学小説も確かに素晴らしいが、今を生きている人間の、脂ぎったきらめきには勝てない。今の私には素直にそう思えるが、JKの私には「メールが届く瞬間」がなかなかの苦痛に変わっていった。どれだけ文面を無視して温度の低いお礼メールを返しても、ドギツい夢小説は取引の日以外も送られてくるようになった。「そろそろ限界かも」と思っていた頃、彼からあるメールが届いた。

「妻に全部バレました。もう買えません」お前、いつもの夢小説テンションはどうした?というぐらい、簡素なメールだった。

いや、「全部」ってなんだよ。JKからウンコを買ってたことか。それとも風呂場でそれを(たぶん)自分の身体に塗りたぐって射精してたことか、はたまたその射精の感想を小説仕立てにし、レビューを製造者の元に送っていたことまでか。訳がわからなかった。さらに訳がわからなかったのは3ヶ月後「もう大丈夫だと思うので、また買いたいのですが」と連絡してきたことだ。いや、たぶん大丈夫じゃねえよ。離婚されてないだけでも奇跡なのに、なにが「もう大丈夫」なんだよ。奥さんもヤバいのか。ならあなたとお揃い(たぶん)の弁当袋を所持する息子はどうなるの。うんこって断てないものなの。「禁煙、また失敗したー」みたいな感覚なの。

何から何まで訳がわからず怖かったので、その男性とはそこで縁を切ることにした。

 

売買掲示板にはいろんな人がいた。同じく排泄物を求める男性から「ニラを食べた後のウンコを売って欲しい」と依頼され、「学生なので献立は親が決めます。ごめんなさい」と返したら「じゃ、コーンは?」と聞かれたこともある。「じゃ」じゃないから。「コーンならいけます!」ってなる道理、ある?

他には、コピー機で印刷した偽札を渡してくる人もいた。当然腹は立ったが、JKのパンツを買うためにコンビニだか家だかのコピー機で、お札を印刷するおじさんのすがたを思うと、急速に悲しい気持ちになり、許した。「世界は、誰かの仕事で出来ている」缶コーヒーBOSSのキャッチコピーだ。そのおじさんは、きっとどこかでは真面目に働きお金を得て家族を養い、世界を構築しているんだろう。JKのパンツを買うために、偽札を印刷しながら。

 

好きな常連さんも、何人かいた。一人目は「オナ済2日履き」常連のAさん。Aさんは背こそ低かったものの、清潔感に溢れ、顔も悪くない感じのサラリーマンだった。とにかく取引がスマートで、お金に余裕があるのか、高頻度で売買してくれた。当時私は「かっこいい大人だな」と思っていたが、よく考えるとどう転んでもかっこよくはない。オナ済2日履きだぞ。

二人目はおしっこ&オナ済パンツのJKハッピーセットご指名のBさん。この人はとにかく、容姿を褒めてくれた。「今日もかわいいね!」「ほんとはキャバ嬢なんじゃないの?ウソ、ほんとにJKなの?キャバ嬢になったら絶対ナンバーワンになれるよー!」あまり往来で言葉を交わすのは危険だから避けて欲しかったが、褒めてくれるのが嬉しくて、Bさんとは比較的よく会話をした。この時言われた言葉と、「丁寧なメールはおじさんの心に作用する。そして私はそのスキルを売買で培った」という自信を胸に、2年後私はキャバ嬢になり、東京の片田舎でお店のナンバーワンではないもののナンバー2になるのだけど、脱線するので割愛する。

「スキルを次の職場で生かす」なんてことは、今の私には出来ない。数少ない友達に「いいなーおじさん紹介してよ」といわれたときも、「おじさんたちは私のパンツ(排泄物)や、日々のメールを信用して取引に応じてくれてる。クオリティを下げるわけにはいかないから、申し訳ないけど分業はできない」と断っていた。あの頃の方がよほどビジネスパーソンだったな…と思う。

このBさんに「◯◯ちゃんのおしっこ、甘いんだけどジュース混ぜた?」と聞かれ、若年性糖尿病を恐れた検査に行ったが、陰性だった。おそらく彼の中で、「JKのおしっこ」は甘美なものだったから、味覚が錯覚を起こしたんだろう。あれ、ただのおしっこでしたよ。

3人目は、オナ済パンツや通常パンツ(1日履き)常連のCさん。Cさんはメガネをかけたとにかく普通の若いサラリーマンといった風貌だったが、会っているときの態度とメールのテンションに大きな隔たりがあった。分かりやすくいうと、多分鬱病だったと思う。

「彼氏と彼女」はつまり、お互いを大切な存在だと認識している人間関係だ。その観点からみたら、私とCさんはあのとき間違いなく「彼氏と彼女」だった。もちろん、私とCさんは売買の日以外に会ったことはなかったし、セックスはおろか、最後まで手を繋いだこともなかった。何度も取引に応じてくれていたけれど、実際に会話を交わした時間はトータル1時間にも満たなかったと思う。

 

でも、はじめて会った日から1年後、私はこのCさんから大きな愛をいただくことになったのである。

 

パンツ(排泄物)売りの少女だった頃の話❷

「生出しでウン◯」もしかしたら、この言葉の意味がわからない人もいるかもしれない。というか絶対いるので説明すると、文字通り(?)「生中継で出された◯ンコ」のことである。訳すると、「心優しいJKさん、どうか僕の目の前でウ◯コをひり出してください。流さず買いますので」という意味の書き込みだった。

快楽天を読んでいた学のある私は、そのような性癖の方がいることには怯まなかったが、生脱ぎや生出しはつまり、中年男性と個室でふたりきりになることを意味する。往来でJKがパンツを脱いだり、ウンコをしていたらさすがに横にいる中年男性はお縄になるからだ。ちなみに、パンツを売っていた頃の私は、ツルッツルの処女だった。(処女喪失の過程はこちらhttps://henjanaimon.hatenadiary.jp/entry/2020/02/19/010926をお読みください。相手は植物物語のトラベル用シャンプーボトルです)

中学生の頃、一時期だけ仲間にハブられたチョイ悪ギャルのKちゃんと一緒に行動していた私は、Kちゃんに言われた「初めては好きな人のためにとっとかないといけないよ」という言葉を忠実に守っていた。中学生の自分は頭を下げても誰もセックスしてくれない容姿だったことは置いといて、悲しそうな目をしながらKちゃんが言った、その言葉を守らなければいけないという忠誠心が私にはあった。中年男性と個室でふたりきり。それ即ちセックスを意味すると、快楽天を読んでいた私は反射神経で理解していた。でも私には、自分の自己肯定力を高めてくれるおじさんたちに、最高のサービスを届けねばという使命感もあった。「生は無理ですが、タッパーなどに入れてお渡しはいかがでしょうか?」私はその男性にレスをした。すぐに、私の捨てアドにその男性からメールが届いた。

「お願いします」

交渉成立の瞬間だった。

 

南海難波駅エスカレーターを上がったところで私を待っていたその男性は、今まで見た男性の中でも、ナンバーワンというぐらいのガリガリだった。その後判明する、男性がしていた事を思うと納得の体系だったが、まだ深淵をのぞいていない私は「ガリガリだなあ。ガリガリなのに奥さんが作ったっぽいお弁当袋を鞄と違う手に持ってるなあ。お弁当が少ないのかなあ」などと思いながら男性に声をかけた。

待ち合わせ相手である中年男性に声をかけたとき、彼らはみんな同じ顔をした。「待ってました!」と「恥ずかしいナ」が入り混じる、少し切ない表情。そのガリガリの男性は少し違っていて、目を見開きやたらハイテンションに「どーもどーも!」といったリアクションを返してきた。快楽天を読んでいる私も、この時ばかりは「そんなにウンコが待ち遠しいのかよ」と少し苦々しく思えるリアクションだった。

約束のブツ(ウンコ)を手渡すと、その男性は私の指示通り、中にお札が入ったポケットティッシュを渡してくれた。それ以上言葉を交わすこともなく、私たちはその場を後にする。公共の場で中年男性と若い女が親しげに話していると、両方にリスクがあるので、その場では必要以上の言葉は交わさない。コミュニケーションはすべてお互いの捨てアドでとる。売買の基本だった。

その日の深夜、男性からメールが届いた。他の男性は照れ臭さからか、「今日はありがとう!助かりました」といったようなNot下ネタメールを送ってくるのが基本だったが(なにが助かったんだろうか)、その男性からのメールは、一味も二味も違った。遥か昔のことなので記憶も朧げだが、覚えている限り再現してみる。

「先ほど風呂場でとっても興奮しました。僕の顔を◯◯さんがまたぎ、◯◯さんのオシリからみるみる溢れてくるウンコ………僕は抵抗できずにウンコまみれになり、◯◯さんの恥ずかしいところを舐め回す…射精しちゃいました。またお願いします」

驚きのあまり、ガラケーを見つめ私は固まった。送られてきたのは、彼と私(のウンコ)の夢小説だった。一瞬、理解が追いつかず混乱したが、「自分はこのようなシチュエーションを体験したんだ!」という妄想を、文章化したものらしい。

何度も言うが、私はこの時ピッカピカの処女だった。高1のころ、声をかけられた男性に無防備についていったらカラオケの中で口淫をせまられ、仕方なく従ったことはあったが、その時ですら嫌悪感で帰宅する際涙したほど、ピュアな女子高生だった。それが、こんな、いきなり、男性の性欲の底の底を見せつけられたのである。固まるのも無理はない。震える手で私は返信を打った。「喜んでいただけてよかったです☺️またお願いします✋💕」

私はすでに、ホスピタリティの鬼と化していた。