変じゃないブログ

なんかいろいろ。へんしゅうぎょう。ツイッターは@henjanaimon

小さな方舟

私は大学3年生になる直前、唐突に大学を中退しなければいけなくなった。「なんか計算したら、これから学費出せないっぽいわ」という割とトンデモな家庭の事情が理由だった。

21歳の私は、ある日いきなり「学生」から「フリーター」になった。

当時私は、大学に通いつつ小売店でのバイトと、バニーガール姿でのお給仕バイトを行なっていた。フリーターになったからには、今日からこの2つが「本業」だ。「あの人って、ちょっと変わってるよね(笑)」と昔から各所で爪弾きにあっていた私のことを受入れてくれる、どちらも居心地の良い職場だったが、金銭的な面や社会的な面で私は不安を抱いていた。「こんなその日暮らしの働き方がいつまで持つのか」本来であれば、大学に通いながら就活をし、円満に退職するつもりであった2つのバイト先を退職し、私は地元大阪に帰った。22歳になる数日前のことだった。

地元に帰った私は、とある新聞社の校正部で働くことになった。本当にたまたま求人情報誌で見かけただけの仕事だったが、「そういえば編集の仕事って面白そうだな」と軽い気持ちで応募し、とんとん拍子で話が進んだ。応募してから1ヶ月もたたないうちに、私は契約社員として勤務することとなった。

同世代の友人たちが立派に大学を卒業し、就職先で働き始めていた頃、予期せず大学を中退することとなった私は焦っていた。大学に通い、周りに合わせて就活し、就職する。安定したレールの上を歩くはずだった人生計画が、突然に狂ってしまったからだった。それでもなんとか、契約社員の職を得ることができた。「とりあえずは安泰かな」と胸を撫で下ろす気持ちだったが、それが甘い考えだったことを、私はすぐ知ることになる。

 

今はどうか知らないが、私が勤務していた約8年前まで、新聞社は恐ろしく体育会系の職場だった。男性社員の割合が圧倒的に多く、毎日発行されるという媒体の性質上、常にスピード感が求められる環境だった。「校正部」は原稿を書く場所でなく、原稿のミスを見つけることに特化した部署だ。「毎日新聞のミスを探して、新聞社に電話をかけることを趣味にしてる人もいるから、絶対見逃しがないようにね」勤務初期に私が先輩に言われた言葉だ。世の中に色んなやべぇやつがいることはなんとなく知っていたが、そんなやつがいるとは。私は唖然としたが、先輩たちは皆その事を分かっているのか、毎日目を皿にして真面目に原稿をチェックしていた。

勤務日初日に、共同通信社が発行している「記者ハンドブック」を渡され、それを基準に間違った表記がないか原稿を読みまくり誤表記を探すのが、校正部の主な仕事だ。昼勤と夜勤に分かれ、朝刊と夕刊をチェックし、ミスがあれば各部署まで出向き、訂正を求める。スポーツ部の人たちは特に体育会系の色が強く、「校正部のものですが」と声をかけただけで、タバコの匂いがプンプンする男性社員に露骨に嫌な顔をされた。「このことわざは本来の意味と少しズレるので、別の表現をお願いします」「この漢字は常用漢字ではないので、改変をお願いします」各部署の人たちに訂正を求め、訂正原稿をチェックし、文脈におかしなところはないか再度チェックし直す。地味な仕事だが、仕事自体は「人の揚げ足を取るのが大好き!」な私にあっていたようだった。しかし、校正部の人たちとは決定的にソリが合わなかった。

私の指導係に、当時の私より10歳くらい年上の女性社員がいた。お世辞にも見目麗しい容姿とはいえない、年老いたロバが2回くらい軽自動車に轢かれたような顔の女の人だった。その人は、とにかく私に冷たかった。毎日露骨にうんざりした顔で指導されていたが、ある日突然その女性ともう1人の女性に、社員食堂に呼び出された。

「あのさ、あなたが入ってくる前に校正部でちょっと揉め事があったんだよね」女性2人がいうには、私が入社する以前に校正部にいた若い女性が、校正部の中年社員をたぶらかし、校閲だけが仕事の校正部にいながら、自分の書いた原稿を誌面に掲載するよう中年社員に依頼し、実際に記事が掲載されてしまい大騒動になったそうだった。今考えると荒唐無稽な作り話であることがすぐわかるが、社会経験もなくまだ幼かった私はその作り話を信じ込んでしまった。「だからさ、あなたが悪いわけじゃないけど、校正部は今若い女の子を警戒してるんだよね。あなたは普通の2倍も3倍も頑張らなきゃいけないわけ」ロバは私がプレッシャーに思う言葉を選んで話しているようだった。今の私なら「は?じゃ給料2倍3倍になるんですか?ていうかあんたも契約社員だよね?私に偉そうに説教たれる身分じゃねーだろ」と思えるところだが(それもどうかと思うが)当時の私は完全に震え上がってしまった。

次の日からの勤務は、気が気じゃなかった。部全体が常に自分を見張り、警戒されているように感じた。優しい先輩も数人いたが、少しのミスも許されないような気がして、勤務中は常に胃が痛かった。喫煙所で他の部署のおじさんが気さくに話しかけてくれる時間だけが救いだったが、今思うとこれもロバの神経を逆撫でしていたようだった。新聞社は圧倒的に男性社員が多かったので、別に可愛いわけでもない私でも「なんか新しく若い女の子が入ってきたよ」というだけで声をかけてもらえた。今の私なら「うるせーくやしかったらお前もおじさんにチヤホヤされるようになってみろや、轢かれロバ女!」といえるが、他の部署の人と仲良く話す私を見るロバの鋭い目にも、私は萎縮していた。時には私のロッカーの中に、ロバから「今日の私さんの良くなかったところ」がまとめられた手紙が入れられていたりもした。つのだじろう恐怖新聞よろしく、その手紙を読むと自分の寿命が縮むような思いがした。

異常な環境に耐えられなくなった私は、家にあった一升瓶で自分の足を殴りつけ「捻挫しました」といって欠勤したり、精神的なものからくる腹痛で会社に行けなくなったりした。限界を感じ、4ヶ月目を迎える前に私は新聞社を辞めることにした。辞めたい旨を告げた際、部長は「あの女はそういうことをしそうだな」と話した後、「君も、派手な格好で勤務したりしてたんじゃないの?」と言い放った。私は毎日白いTシャツにジーパンという、現代版山下清画伯のような格好で通勤していたのに…。この時初めて「ああ、辞めるって決めてよかったな」と私は安堵のようなものを感じた。そしてやはり、私が入社する前の揉め事云々の話は、すべてロバの創作だったことも判明した。「やべえやつ」は、毎日新聞のミスを見つけて新聞社に電話をかけることを趣味にする輩だけでなく、社内にも存在していたのだ。

あれから8年の時がたった。私は今、どこの会社にも在籍していない。自分では「ちょっと忙しい無職」を自称している。「ちょっと忙しい」というのは、数社から仕事を委託契約で回してもらい、かろうじて少しは働けているからだ。

今の私は、編集と校正、ライティングを生業として生活している。あれだけ嫌でたまらなかった校正部の勤務経験だが、異常な環境下にいたからこそ、私は4ヶ月間毎日とてつもない集中力をもって仕事をした。まるで学生の宿題のように、給与も発生しないのに家に帰ってからも自主練をした。そのおかげか、新聞社を退社後入った編集プロダクションでは、毎日上司に怒られる日々の中で「校正だけはすごいできるじゃん」と褒めてもらえた。この上司はロバとはうって変わってとてもいい上司で、素っ気無い態度ながらも私に校正を任せてくれて、編集の基礎も叩き込んでくれた。そのおかげで、私は今でもショボいながらも編集の仕事ができている。

「校正」は地味な仕事だからか、あまりやりたがる人もいない完全裏方の仕事だ。そもそも、編集業が裏方の仕事なのに、その業務の中でもかなり陰の作業だと私は思っている。だからこそ、きちんと勉強してきた人も少なく、私ぐらいの能力でも校正の仕事を任せてもらえている。

新聞社を辞めた後、仕事面だけでなく、いろいろと辛いことが多かった。うつ病になったり、アルコール依存症になり、多臓器不全からの心肺停止を起こし、2ヶ月の入院を経験したりもした。私は今でもロバのことは許せないし、「街で見かけたら一発殴りてえ」とすら思っているが、同時に人生は経験の積み重ねで成り立っているということも、やっと理解できるようになった。私がロバに屈辱を感じさせられた日々も、今の私の仕事を構成する立派な一部だ。何かを恥じたり、悔いたりする必要はただの一つもないと今では思える。

旧約聖書「創世記」で、救世主ノアは方舟を作り、これにさまざまな生き物を乗せ地球上の沢山の生命を大洪水から救った。「会社」という小さな方舟の中で、幼く弱いカメだった私はロバに虐められ悲しい思いをしたが、長い人生を生きる上で大切なのは、その方舟の中でどう上手く生きるかではなく、ノアが救ったこの世界で地面に足をついて生きるため、その方舟を降りた後の自分の身の振り方を考えることだ。

いろいろな経験を経て今や凶暴なカミツキガメに成長してしまった気がしないでもない自分だが、もう小さな方舟はない。これからも、自分の身におこる経験の全てを生かして、働き続ける予感がしている。

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