変じゃないブログ

なんかいろいろ。へんしゅうぎょう。ツイッターは@henjanaimon

精神病棟に入院していたときの話❶

2016年末、私はボロボロだった。メンタルではなく、体の話だ。

とにかく、何を食べても即座に戻してしまう。アルコール中毒だったので、「お酒を飲まないとダメになってしまう」という強迫観念に取り憑かれ酒は飲んでいたものの、最後にはその酒もマーライオンが如く口から噴出するようになった。最後には、水やお粥を口にしても吐く、人間スプラッシュマウンテンと化していた。

「絶対に何かがおかしい」まだ普通に二足歩行はできていた頃、私は一人で近所の内科を訪れた。私の血液検査の数値を見た医者は「あなたはうちではなく、精神科医に診察してもらってください」と、文字通りさじを投げた。肝臓の不調を測るγ-GTPという数値が、基準値の20倍を示していたからだ。

私はいい歳ぶっこいて今でも実家で暮らしているので、とうとう歩くのもおぼつかなくなった私を見兼ねた両親は、私を連れて精神科病院を訪れた。その精神科医の定期診察を受けていたのは当時からもう1年以上前のことだったが、親も精神的に参っていて藁をも掴む気持ちだったのだろう。青い顔をした両親に、医者は「重度の拒食症だろう。入院してもらうことになる」と告げた。

後日、私は家から車で1時間かかる大きな精神病棟で、違う医師の診察を受けることとなった。頭も朦朧としていてあまり覚えていないが、紹介状があった為かその場で即日の入院が決まった覚えがある。

病院の受付時点で、その病院のただならぬ雰囲気は感じ取れた。受付前の待合椅子で、大人なのにだらしなく横になる人。診察を待っているのかいないのか、人ならざる目をして、何かをぶつぶつ呟く老人。うまい例えが見つからないが、地獄というものがあるのならこんな感じなんだろうな、と受付時点で察することができる有様だった。

「あなたの病室の横には桜の樹があるから、春には病室から綺麗な桜が見れますよ」そう医者に告げられ、弱った頭で私は(いや、桜の季節までこんなとこおらなあかんのかい)と思った。病室のある階にいくと、襟ぐりがグダングダンになった薄い白Tシャツ1枚で惚けている男性、看護師さんに付き添われながら意味不明なうわ言を呟き歩く女性など、受付で見た人たちより猛者が病院内をウロウロしていた。でも、私もここに入れられた限り、健常者より彼らにぐっと近い人間なんだと、失礼を承知で胸が痛む思いがした。いったい、私はいつからこうなってしまったんだろう。

2年前の2014年。私は横浜市に住んでいた。2012年に故郷である大阪に戻って以来、夢にまで見た東京(横浜ではあるが)での再スタートを始めていた。2013年より大阪で交際していた、関東から赴任してきた男性が関東に戻るので、私も連れて同棲するかたちで、横浜で生活していた。今思うと彼がとんでもないモラル・ハラスメント男で、私は「◯◯は社会性がないんだから、すぐ鬱になるんだから、働きになんて出てはいけないよ」と告げられ、家で専業主婦のようなことをしていた。当時から家事は好きだったが、生活費は彼が与えてくれるお金のみで、私は食費や必要経費を彼に催促するのがとても嫌だった。自分はずっと家にいるのに、「お金が足りないです、寄越しな」と言えるような図太さは私にはなかったのだ。彼だけを責めるつもりはないが、そんな生活の中で私は病みに病み、ついに彼に父親を呼び出され父親の目の前で別れ話を強いられたあげく、「娘さんを連れて帰ってください」と告げられた。いや、やっぱり34歳の男が24歳の女に「ずっと家にいろ」と強いた挙句に、別れ話に女の親を呼び出すのはおかしいぞ。彼だけを責めます。このファッキンキチガイが!大体な、「入院して」って言ってきた精神科医だって、元々はお前が私を階段から落としてきたりで病んで通いだしたん(5000文字くらい愚痴を書きそうなので割愛する)

モラル・ハラスメント男がキチガイだったことは置いといて、無理やり父親に自分を押し付けられ、次の日には新幹線に詰め込まれていた私は、その時からキチガイへの道を歩み始めた。その後に交際を始めた男性が、私に隠れて『奴隷』と称する女を何人か抱えていて、更に裏で乱交パーティを主催。パーティで同性愛者でもないのに男とセックスするような男性だったのも、私のキチガイ化に拍車をかけた。(彼のことは一切好きではなかったので泳がせていたが、ある時喧嘩になり乱交パーティの件を問い詰めると「ごめん、映画『ソドムの市』みたいなことがしたかった。京橋の立ち飲み屋で隣のじじいに『ニィちゃん、デカイ女好きか?』って声かけられたのがきっかけ」と白状した。ちなみに、私はそのじじいとDQN化したマツコデラックスみたいな女が全裸でツーショットピースしている写真も知っていた。京橋の立ち飲み屋でなにが『ソドムの市』じゃピエル・パオロ・パゾリーニ監督に謝れ)

 

「私がデブでブスで、その上何にもできないから、こういう人ばかり寄ってくるんだ。せめて、デブをやめよう。というよりもう、私でいることをやめたい」モラ男に追い出された私は、酒を浴びるほど飲んで体重が15キロほど増加していた。今思うと何らかの身体疾患をもつもの特有の異様な太りかたをしていたから、食事制限をしても何をしても体重が減らなかった。醜くなり果てた自分の体も、私の頭を悩ませる一因だった。あらゆる悩みに苦しむのも疲れた私は、決意のもとに、ある時から食事を抜き、ひたすら酒を飲むようになってしまった。私の、緩やかな自殺はここから始まったのだ。